>> スロウ * * * 



体が元に戻ったら、スローライフを送るんじゃないかって、なんとなく思っていた。

それは多分母さんと3人で暮らしたあの幼かった日々や、ふたりで半分ロックベル家にお世話になりながら過ごした日々を、忘れられずにいることもあるけれど。

旅の間にあの人が夢見がちに語った、『体が戻った後』にしたいことを、全部信じていたからだったように思う。










「なんてボクって純粋だったんだろう」

「あ?」

テーブルの上の食べ物をすごい勢いで片付けながらも、ボクの言葉を聞きとがめたのが、ボクの兄でたった一人の身内でもあるエドワード・エルリックだった。

「っていうかその聞きとがめ方ははっきり言って不快だよ、兄さん」

兄は目の前にあるバターロールとトーストに、バターを塗ったりジャムを塗ったりしながら分厚く切ったハムを食べ、葉モノを手で千切ってヒューズ家特製のドレッシングをかけただけのサラダにフォークを突き刺し、攻撃的な目で少なくなったオレンジジュースのグラスを睨んでいる。

「いっつも思うけど、お前のツッコミはマジで黒い」

「そうさせてるのは誰だろうね」

そんな兄の目の前からグラスを攫ってきて、ジュースを注ぎ足してやってるボクに向かって言う台詞でもないし。

「はいどうぞ。タマゴもう一回焼こうか?」

「ん。スクランブル」

グラスを当たり前のように受け取って、いくらボクが皮肉を言おうとも気にした風でもないのだから、そんなことを言われる筋合いなんかないという話だ。

「はいはい」

ボクは途中にしている食事を置いて、再びキッチンにもどった。忙しい上にガサツな兄さんに代わって、ボクが家事を引き受けているのだ。

っていうかそれは別にいい。この兄ときたら本気でやればできるくせに(師匠のとこで一通り教え込まれたし、母さんが死んだ後は分担していた)、面倒のヒトコトで色んな所をなおざりに済ませてしまう。ボクは家事も結構好きだし、手を抜く時はいくらでも抜いちゃう兄さんの家事の後始末をすることを思えば、自分でしてしまった方が余程建設的だから。

「はい」

「お、サンキュ」

スクランブルエッグにトマトソースをかけて渡すと、兄さんが嬉しそうな顔で受け取った。早速そこにフォークを突っ込むと、半分近くをすくって口に入れてしまう。

「もうちょっと味わって食べてよ」

思わず言うと、兄さんがにかっと笑った。

「味わってるよ。オレ、アルのトマトソース好き」

「好きはいいけど、あんまり焦って食べると喉詰まらせるよ」

「だって美味いんだもん」

「・・・・・・・・・・・・」

そう。ボクがした方が建設的だというのもあるんだけど。

「美味しい?」

「美味しい」

この笑顔に負けてしまうということも、すごくある。

それは人に言わせると(特にウィンリィ)、甘やかしすぎということになるらしいのだが。

「いくらでも作ってあげるから、ゆっくり食べなよ」

「じゃあおかわり」

「・・・・・まだ食べるの?」

「だってうまいんだもん」

そう言ってもらえることの喜びには、勝てないのだ。




「じゃあ行ってくるな」

「うん。ボクも後から行くけど気をつけて。皆に迷惑かけないでね。あと物も壊さないでね。直せばいいってもんじゃないんだから」

「・・・・・お前は毎日同じ事を言って飽きないのか」

「そっちこそ、毎日同じ事を言わせないでよ」

兄さんは毎朝、ボクに見送られて中央司令部に行く。彼はそこで少佐として働いている。

あんなにも軍属を悲しみ従軍を恐れていた彼が、いまや軍人だということには多少の違和感があるけれど、それはかなりの割合でボクのためだったりする。

もちろんロイ・マスタング氏が昇進して准将になったこと、リンが国に帰って地位を築いていること、何よりブラッドレイ大総統の失脚などの理由が重なって、軍で働くことが以前ほど危険ではないという妥協点はある。とはいえ、大きな戦争などなくとも、まだ建て直しが始まったばかりの国には小競り合いや問題が絶えない。

当然危険でないわけも無い。軍というのはそういうところだ。人の命を奪うことも、奪われることもあるだろう。それでも 「ボクを人の体に戻したことに対する危険」 の方が勝っているということなのだ。

ボクたちがあの頃夢見た、故郷に戻って、ふたりの家を建てて。そんな穏やかな暮らしをするには、ボクらは国や軍の内情を知りすぎていた。

そしてボクたちが再び犯した「人体練成」の禁忌は、たとえ自分の体を取り戻す為だとしても、人の危機感を煽るものだと。

ボクたちは准将の監視の元という名目があるから、セントラルにいる。

兄さんはあわよくば「禁忌」を利用してやろうという輩から自分達を守る為に軍にいる。

ボクはといえばようやく慣れてきた体で、司令部でのバイトに勤しむ日々だ。最近では軍も予算削減に努めているとかで、バイトで賄えるとこはバイトを雇うものらしい。

初めは週にふつかほど。最近では、四日は通って資料の整理をしたりしている。時間はその日のシフトによって色々。

「さて」

兄さんを見送ったボクはキッチンに舞い戻ってお昼ご飯の用意をはじめた。










お弁当を作るようになったのはここ最近の話だ。

軍にはもちろん食堂があって、これが結構美味しいものだから、そちらを利用していたのだけど。

始まりは、兄さんが急な事故で駆り出されて連絡も出来ずに午前様になった日、ボクの作っていた夕食を絶対全部食べると言って聞かなかった彼に、じゃあお昼に持って行きなよと言ったことだった。

その夜は疲れた顔をした兄さんにスープかなんかを作って食べさせて寝室に追いやり、翌朝、腹減ったと騒ぐ彼に夕食の残りを利用したちょっと豪勢な朝食を作って、その中で持ち運べそうなものをランチボックスに詰めて持たせてやったのだ。

夜になって上機嫌で帰ってきた彼は、明日も弁当!と騒いで、ボクがせっかく美味しい食堂があるんだし、食堂のご飯なら汁物も食べられるしそっちの方がいいよと言っても聞かないで、結局ボクのシフトが午後からの時はお弁当を作り、午前中からの時は一緒に食堂でごはんを食べるというところで合意した。

「アルー」

今日も兄さんは時間ぴったりに待ち合わせの場所に現れる。本当にまじめに仕事してるんだろうかと思うほどきっちりと。

本来なら軍人っていうのはもっと時間がまちまちなものだし、夜勤なんかもあるのだけれど、その辺兄さんは優遇されているらしい。何せ未成年で国家錬金術師で少佐だから。

そういうのは甘やかしてるって言わないのだろうかと思うけど、ボクたちが比較的規則的な生活を送れるのはそのおかげだから、文句は無い。

「お疲れ様。どうだった?」

毎度のごとく、お弁当をシートに広げたボクが見上げると、兄さんは嬉しそうに笑った。

「おう。なんも壊したりしてないぞ」

「言ってから四時間やそこらでそんなことしたら、お昼抜きで机に縛り付けるから」

「なんでだよ!」

「判らないなら本当に縛り付けるよ?」

冷たく言ったボクに兄さんはしゅんとなってその場でいじけた。ボクは、無言でお弁当を渡す。

「いただきます」

目の前に差し出されたお弁当に、上目遣いでそう言う兄さんは、ボクのどうぞというそっけない言葉に促されるように、もそもそとそれを食べ始めた。

司令部っていうのは本当に人が多い。いい加減見慣れた人も多いんだろうけど、庭でピクニックよろしくお弁当を開くボクらをぎょっとした目で見る人もたまにいる。それから兄さんの顔を見てさらにぎょっとするのだ。

ボクにそんな振りは見せないけれど、やっぱり兄さんは有名人らしい。

ボクの働くところは、同じ司令部内とはいえ、資料室で膨大な資料を相手にすることがほとんどで、同じ資料室勤務以外の軍人とはあまり接触が無い。それでもそろそろと噂が耳に聞こえてくる。

『鬼少佐』の噂が。・・・・・・エドワード・エルリック少佐は冷静冷徹。仕事には一切妥協せず、素早く、正確。

本当に想像もつかないけれど、どうもそういうことらしいのだ。

軍人には若すぎる、上官たるには若すぎる。それを跳ね除けるためだと想像は出来るけれど。

「・・・・うまいです」

「当たり前です」

この兄をして「鬼」だとは。

「兄さんのために作ってるんだからね」

そう言うと、しゅんとしていたはずの兄さんは急ににこにこしだした。・・・・・・本当に信じがたい。

ボクは、手元のりんごを見つめた。

レモンの力でりんごの色はまだきれいなままだし、自分で作ったものながら、みんなきちんと美味しいし、空は晴れて気持ちがいい。

軍という多少の不安材料はあるものの、生活は保障されていて、何よりそばにきちんと兄がいる。その兄も自分も元気で、実際ボクらは恵まれている。

今でこそ不安定な情勢のこの国だけれど、これからどんどん落ち着いてくるだろうし、兄さんだって鬼と呼ばれながらも頑張ってるんだろう。

それなのに。

「今日のデザートはりんごだよ」

「おう」

いつか兄さんが軍部を辞めて、リゼンブールに帰って・・・そんな思いが絵空事に思えるのは何故なのか。

「あの、アルフォンスさん?」

「・・・・・・・うん?」

真っ青の軍服は面立ちも性格も趣味も派手な兄さんに良く似合う。ボクは彼の軍服姿を見るたびに、もう着なくなったあの赤いコートを思い出す。

真っ赤なフード付きのコート、飴色に馴染んだトランク。

それらはかつてボクであった鎧と共に家の一部屋に大事に安置されている。フラメルの印はもうどちらも背負ってはいないけど、旅の記憶と共に胸の奥に。

「お前、腹でも腹痛いのか?それともどっか他のとこか?」

「だから何かあるたびにおなか痛いことにするの止めてってば」

「でも、だってお前何か変だし・・・」

「だいじょうぶだよ。ほら、りんご食べなよ。せっかくウサギにしたんだから」

楊枝付のりんごを差し出すと、納得いかなそうにしながらもしゃりしゃりと食べている。これのどこが鬼なんだろうと思うけど、昔と同じように何もかもボクが知るということは無理なんだろう、多分。

その事実はボクの心に重くのしかかった。

「ボク、バイト止めようかな」

「え」

「もちろん今すぐの話じゃないけどね。体の調子も戻ったし、きちんと働くこと、考えてみようかと思って」

「そ・・・か、」

「うん。いつまでも兄さんのお世話になってる訳にもいかないしね」

「そんなの!・・・お前だって家事してくれるじゃねえか」

「別に心配しなくても、働いたって食事くらいは作るよ。兄さんにも協力してもらうことになるだろうし、お弁当はさすがに無理かもしれないけど」

「・・・・・・」

兄さんはウサギのなくなった楊枝を握ったまま、何だか人に懐かない猫みたいな目でボクを見た。少し離れた壁の上、近づくべきか警戒するような。

「ダメ?」

「そんな、わけねえだろ」

それでもボクのことばには笑って頷いた。ボクが鎧だった頃に見ていた景色がふと変わらない笑顔に被って、ボクは息をつく。

普通に考えればわかったことだ。昔みたいに何もないように穏やかに、ただふたりだけで過ごすなんて無理なこと。今でこそこうして、時間を合わせて会うこともできるけど、いつかボクらだってすれちがって。いつか。

「なあ、アル」

「なに?」

兄は、何でもないというように首を振って、ごちそうさまと告げた。






どがーんと、派手な音がして、資料室が揺れた。揺れに耐え切れず乱雑に積み上げていた資料が、ずざっと床に流れ落ちて、ボクは引きつった。

「何事ですか?」

ところが文句も言えないタイミングで、再び爆発音がする。不安そうにした資料室の面々を見渡して、ボクはとりあえずドアを開ける。なんとなく嫌な予感がした。

「ちょっと見てきます」

そう言うと我も我もと皆が続いて、それは他の部屋でも同じだったようで、廊下が妙な騒ぎになっていた。

「何かあったんですか?」

そう聞いても判る人はいない。その途端今度はジリリリリリリと、鼓膜を破る悲鳴のような警戒音。

「とりあえず、外にでましょう」

不安を呼ぶその音が響き渡るが、さすがに司令部というべきか、取り乱す人はいない。非常口に向かって人の流れが動き出すのを、ボクは廊下の窓を開けて外を見る。

司令部には棟がいくつもあるが、そこから見える向かいの棟も慌しく騒いでいる。青い空にもくもくと煙。火事だろうか、あっちの方向は・・・・。

「全員に告ぐ」

突如放送が入った。決して調子がいいとはいえないスピーカーがざらついた音と共に男の声を吐き出した。

「当放送室は、我々C.W.Aが乗っ取った。人質は三人、女ふたりと男ひとりだ。解放を望むならばアルフォンス・エルリックを連れて来い」

「えっ、ボク?」

思わず聞き返してしまって、その声に移動中の人たちがボクを見た。

「あ、すみません。どうぞ行ってください」

ボクは彼らを促して、まだ同じ要求を繰り返しているスピーカーを見上げた。アルフォンス・エルリックって同姓同名ってことは無いよね。聞いたことないもん。

だとしたらこのまま逃げる訳にはいかないけど、直属の上司は今日はお昼までで早引けしている。更に上の人に相談とかしてもいいけど、やっぱりこういう事態の場合、ボクの知る限りで一番上の階級の人に身の振り方を聞くべきなんだろうな。

どうせ指揮を取るのは上の方の人だろうから。

そうなると、マスタング准将か、まあ・・・兄さん?

そう思ったところで、すごい勢いで走ってくる人が見えた。どけええええええ!と人の波をかきわけまさに鬼の形相で走ってくるその人は、タイミングがいいというべきか当然と言うべきか、エドワード・エルリックその人だった。

「アル!」

「あ、兄さんちょうどよかった。っていうか早っ!テレポーテーション?今の放送聞いてから来たんだよね?」

「何のんきなこと言ってんだよ!」

ボクが手を振ると、ボクの前で上手に急ブレーキをかけた兄さんが、途端にしかりつけた。

「慌てたって状況が変わるわけじゃないだろ。だいたい心配して来てくれたんじゃないの?」

ボクがむくれると、兄さんが困った顔をして、ボクの肩を叩いた。

「心配したから怒ったんだろうが。・・・・・無事ならいい。こっち来い」

そのまま肩を抱いて、守りでもするように先導する。

「どこへ行くの」

「さっき無能が緊急対策室を作った。B棟は封鎖。包囲網も概ね完了してる。お前が心配することは無いよ」

淡々と話す言葉にボクはどこか違和感を感じる。だって何だかやたらと手際がいいじゃないか。ここC棟の人たちはまだ避難か集合だかの途中だっていうのに。

「そう。で、兄さんはどうしてC.W.Aとやらの恨みを買ったの」

「はあ?」

「あ、誤魔化すつもり?でもどう考えてもおかしいよね、ここでボクの名前が出るのって。兄さんを直接狙わないでボクから落とそうとするなんて、相当のバカって可能性もあるけど、そりゃ」

「相当のバカなんだよ。軍部内の一部屋陣取ったところで何になる」

ボクが吹っかけるのに、兄さんはため息まじりで言う。まあ確かにそれはそうなんだけど。それにしたってボクの名前が出るのは納得いかないなあ。

「でもまあ、相当のバカなんだったら、ボクが行けば問題ないね」

ボクが犯罪者と誼のあるわけもないから、狙われているとしたら当然兄さんだ。だけど兄さんは強い。鋼の錬金術師としての名も馳せている。ならば、将の前に馬を。そう考えるのはとても自然な流れだ。

ただしソレが普通の馬なら。

「バ・・・・・何言ってんだ!」

兄さんが耳元で叫ぶものだから、ボクは彼からちょっと離れる。

「何って、相手がバカなら油断を誘う意味でもそれが一番でしょ。正直その辺りの軍人より頼りになると思うけど?」

傲慢から言ってるんじゃない。確かにまだ体が完璧に動く訳じゃないけれど、それでも今の兄さんと仕合ったとしても五分五分だろうし、錬金術だって鎧の頃と同じように使える。

「お前は一般人だろ!どんな理由があっても差し出せるか!」

「・・・・・でも」

「ダメだ!」

「そう」

その言い方にふと心が冷えた。

兄さんがボクを心配してくれてるのは判る。でも、あの頃のような。

脳裏で三編みが跳ねる。

  ――――― 共犯者になれって事?

「何だい、穏やかじゃないね」

兄さんに連れられて、緊急対策室という名の部屋の扉を開けると、マスタング准将が意地の悪そうな笑みで迎えてくれた。

「ご無沙汰してます准将。皆さんも。・・・・あれ?リザさんはいらっしゃらないんですね」

ボクの問いに准将がテーブルに座ったまま重々しく頷いた。

「うむ。それが・・・・放送室へ行ったきり帰ってきていなくてね」

え。

ボクは止まる。それって、人質って・・・。

「そうなんですか?それは下手を打ちましたね、相手」

思わず言うと、誰もが苦く笑った。

「ボク行きますので、状況教えてもらえますか」

「アル!」

「そうかい?助かるよ」

「ちょ、何勝手に決めてやがる!」

「相手の数とか目的は判ってるんですか?」

兄さんと話すとややこしくなるので、彼のことは無視して、ボクは准将に聞いた。

「正確にはわからないがどうやら三人。先だってから、脅迫状がいくつも届いていたんだ。目的は国を軍部から解放する、ということだったが」

「例のごとく新体制に対する不満、ですかね」

恐らくそうだろうな、と准将が言って合図をする。フュリーさんがいくつかの脅迫状を見せてくれたけど、特に独創的な文章は無かった。名指しされたに関わらず、ボクの名前どころか兄さんの名前すらない。ボクは安心したような、拍子抜けしたような気になる。

それはつまり。

「身の内の敵っていうのはやっかいなものですね」

「まったくだ」

それで判った。エドワード・エルリックの弟、アルフォンス・エルリック。鬼少佐の唯一の弱点、と、軍部内では囁かれているらしい。

大総統の失脚と前体制の崩壊は、たくさんの敵を作ることになった。それを不満に思う内側に。かんたんに軍部内にテロリストの侵入を許したのも、内通者がいてのことだろう。

そう考えれば、自分の名前が出たこともさほど不思議なことではない。部外者なら、エルリック兄弟の名前を知っていても、今ボクが軍部でバイトしていることまでは知らないはずだ。それで特別兄さんと何かあったのかと思ったけれど。

「あ、認めちゃうんですね」

「今更君に取り繕って何になる」

まあ、それもそうだ。

焔の錬金術師はもちろん、鋼の錬金術師だって、現体制の象徴のようなものだ。そうでなくても、ボクらの持つ秘密は色々な意味でこの国を揺るがすのに充分だから、標的として兄さんが狙われてもおかしくない。

その鋼の錬金術師の唯一の弱点、アルフォンス・エルリックに目をつけたことも。

「現体制になって、まだ一年ほど。今の軍部はまるで砂の城だよ。作る端から瓦解していく。それでもやらない訳にはいかないからね」

「もちろんです。判っててマスタングさんは、准将におなりになったんでしょう」

「手厳しいな」

彼が小さく笑ったところで、兄さんが叫んだ。いつのまにかハボック中尉に取り押さえられていたようだ。

「てめえら人の話を聞けえ!」

部屋中に響き渡るような声にボクは思わず制止する。

「兄さん煩い」

「相変わらず君の兄さんは目上の者に対する口の利き方がなってないな」

「すみません。よく言って聞かせますんで」

「アルが行くなんて絶対ゆるさねえからな!」

まだそれ?とボクはため息をつく。

「だって向こうがご指名なんじゃない。リザさんもいるんだし滅多なことにはならないって」

「そういう問題かあ!」

ばたばたとあがく兄さんが、とうとうハボックさんの腕からすり抜ける。

「アルは一般人だろ!そんなこと外にバレたらもっとややこしいことになんだろが」

「・・・・・・・・・・おお。大将にしては最もな意見」

納得しないでくださいハボックさん。

「それにいくら調子が戻って来てるっていっても、アルはまだ本調子じゃない。オレは反対だ」

厳しい表情で言った兄さんに、ボクは准将を見てみたけど、いつもの通り何を考えているかわからない顔で薄く笑うばかりだ。

「お前はここにいろ。いいな」

 ――ダメって言ったってやるんでしょ?

「じゃあ一般人じゃなければいいんだね」

「・・・・ア」

「マスタング准将。准将の権限でボクを正式に雇ってもらえませんか」

「アル!」

兄さんの声が、部屋中に響いた。だけどボクは止めない。

「ボクが軍人だったら問題無いわけでしょう?」


ずっと夢見てたスローライフ。そこにいつか辿りつけるのなら今のままでも構わない。だけど、多分そうじゃない。今のままボクが守られる立場でい続けることは、いずれボクらの内から離別を生むように思う。

「そんなの許さないぞ、アル」

「どうして?さっきは働いてもいいって言ったじゃない」

「それは・・・!でも軍部でだなんて」

焦るように言葉を繋ぐ兄さん。ボクは首を振る。胸の奥に小さくわだかまっていたものが、ようやく解けたような気がしていた。

家事をするのは嫌いじゃない。軍人になりたい訳じゃない。ただ。

「ボクはそんなに頼りない?そうやって腕の中に囲って、守って、兄さんが昔思い描いた未来はそんなのだった?」

兄さんの金色の目が、ボクを見返した。その光に、傷ついた色が浮かんだのが判ったけれど、ボクは引かなかった。

「もしそうだとしても、ボクの未来の中に、そんなのは無かったよ。・・・・・・・・准将」

振り向いたボクに准将が頷いた。

「こちらとしては願っても無いよ。一兵卒からということになるが」

「当然です。ただ急にボクが抜けると資料室に人手が足りなくなるので、当分はそこに配属をお願いできれば」

「うむ。まあその辺はうまくやろう。いいな、鋼の」

問いかけに答えは無かった。







「お疲れ様、アルフォンス君」

ボクの軍服姿に眉ひとつ動かさず、リザさん・・・・いやホークアイ大尉が拳銃をホルダーに仕舞う。

「お疲れ様です。さすがですね」

「貴方も。助かったわ」

C.W.A・・・紅のなんとかとか言うらしい奴らはボクを人質に取ることに浮き足立って、自滅した。そう言っていいだろう。あるいは大尉を侮りすぎたか。

ボクに意識を取られた犯人を見て取るや、彼女はいつの間にか解いたロープから抜け出して、その硬いブーツで思い切り相手の足をすくったのだ。いつ見ても見事な足払いだ。

とっさのことだったけれどボクの体も動いた。それで出たのが兄さんお得意の「壁からゲンコツ」だったあたりは反省してるけど。

何はともあれボクも、人質も、何も損なうことなく生還を果たした。・・・・というのは大げさかな。

放送室あたりは一部爆破されて、多少の怪我人がいるようだ。「エルリック少佐」が指揮を取る部隊が乗り込んできて瓦礫を片付け始めるのを見ていると、指示を終えた兄さんが、こちらを見た。「少佐」の顔をしていた。

「ホークアイ大尉、報告を」

「はい。――実行犯は三名。すべて男性で、ふたつきほど前から繰り返し脅迫状を送ってきた団体に所属する者たちだと思われますが、彼らは全員我が軍の制服を着ていました。私が放送室にいたのは偶然で、爆発音に気をとられた隙に拘束されました。人質になった私を含む三名はほぼ無抵抗の状態で拘束されたため、怪我らしい怪我はありません。犯人たちは当身を食らわせている程度なのですぐに目を覚ますと思われます」

「そうか。やはり内通者がいるということだな。では准将にも報告後、指示を仰いでくれ」

「はい。失礼します」

大尉が頭を下げてその場を辞すると、兄さんはボクにも話しかけた。

「エルリック一等兵」

「・・・・・はい」

「ご苦労だった。持ち場に戻れ。今後については追って沙汰が行くはずだ。それまでは今までと同じ形で働くようにと准将から指示が出ている」

「はい」

厳しい視線だけが言葉と共に落とされて、ボクは押されるように頷いた。これが、「エドワード・エルリック少佐」。

「判ったならぐずぐずしないでさっさと行け。・・・・・オイ、そこ崩れるぞ。もっと考えて積め!」

失礼します。とボクも声をかけたけど、彼は振り向かなかった。でも、それがボクの選び取った道だった。



仕事を終えて家に戻ると、ボクは夕飯を作った。お風呂の用意もして兄の帰りを待ったけれど、彼はいつまで経っても帰ってこなかった。

事件の後始末をしているのかもしれないけれど、単にボクの顔を見たくないと思っているのかも。

軍人になったことに後悔はなかったけど、兄さんに許してもらえないまんまじゃ意味が無かったから、ボクはずいぶん遅くまで彼を待っていた。

先にご飯もお風呂も済ませ、兄さんを待つのに、読もうと思っていた本を積み上げて片っ端から読んでいくことにする。そうして玄関で音がしたのは、午前をずいぶん過ぎた頃だった。

目線を上げたボクを見止めて、彼はふと辛そうな顔をした。「少佐」じゃないや、とボクは当たり前のことを考えた。

「起きてたのか」

兄さんはそれだけ言うと、ひどく疲れた様子でソファに腰を落とした。

心なしか顔が赤い。もしかして。

「飲んでるの」

「おお」

答えて兄さんは潤んだ目を上げた。珍しいことだった。

「そう。ご飯はどうする?」

「・・・・・・・・後で食う」

彼はそう言うとオヤジみたいな伸びをして、ソファに転がった。ボクはしおりを本に挟んで立ち上がり、彼のために水を汲んだ。

「はい」

「お、・・・・おお、サンキュ」

「シチューだから、自分であたためて食べてね」

「おう」

兄さんはボクと目を合わせたく無いようだった。まだボクの決断に戸惑っているのだろうと判った。ちゃんと話をしたかったけど、今こんな状態で話をしてもろくなことにならないから、ボクはおやすみを言った。

「ここで寝ないでちゃんと自分のベッドへ行くんだよ」

「アル」

本を抱えて部屋に行こうとしたボクを兄さんが止める。

「・・・・なに?」

ああ、何て顔をしてるんだろう。ボクを見上げた兄さんが、ボクは途端に可哀想になった。

弟を今まで必死で守ってきて、だけどその弟に裏切られて、それでも弟の自立心を応援してやろうなんて必死にいろいろ我慢でもしてるんだろう。そのついでに娘を嫁に出す父親みたいな気分になってるのかもしれない。

「なんでもねえ」

ボクの視線に耐え切れず、そっぽを向いた兄さんに近づいていって、ボクはそのつむじをはたく。

「いてえ!」

本当に、バカな人だ。

抱えていた本を落として、代わりに兄さんの頭を抱く。誰と飲んできたのか知らないけど、髪からタバコのにおいがした。

「アル?」

鬼少佐とか言われてるくせに、ボクだけが大事で、ボクのこととなるとてんで鈍くて、勝手に傷ついたりして。

飲んだって酔えやしないくせに。

「タバコくさい」

「・・・飲み屋にいたんだから仕方ねえだろ」

「未成年のくせにお酒のんだりして」

「誰のせいだ」

「人のせいにするつもり?」

ボクに頭を抱えられてるくせにいい度胸だと頚動脈に指を当てたら、兄さんはぎゃーと叫んだ。

「す、すみませんすみません、許してアルフォンスさん!」

バカじゃないのほんと。

「ちゃんと話しようと思ったのに、兄さんがそんなじゃ、話も出来ないだろ」

「だって・・・」

スローライフはあまりにも遠すぎた夢のかけら。それを嘆くのは贅沢だ。今の状況は現実だからこそ。痛いのも当然なんだろう。

兄さんはきっと軍を辞めない。辞められない。それでボクの知らないところで狙われたり、危ない目にあったりするだなんて。

「・・・許さないから」

「うええ!?」

逃げようとする体を抱きしめなおして、戸惑う視線も無視して、乾いたくちびるにキスをした。想像していたよりずっと、何と言うか、気持ちよかった。

「ぜったい、離れてなんかやらないから」

言ってしまってから、何だか女々しい台詞だと思ったけど、ぽかんとした顔でボクを見上げた兄さんの顔が面白かったから、まあいいや。





「おはよう、兄さん」

翌朝。

「うー」

「ほら、早く食べて。今日は会議だろ」

「うーー」

「はい。タマゴ。トマトソースかけてあるよ」

「・・・・・・・」

「もう、しゃんとしなよ!そんなんじゃ准将に笑われるよ」

ボクの言葉に、兄さんはじろりとした目で見上げた。その目が赤いのは、多分眠れなかったんだろう。・・・色々考えすぎて。

「・・・・・・誰のせいだ」

「・・・・・・」

さすがにそれには反論できなかった。

「ボク、のせいかな?」

「当たり前だ!キ、キスなんかしやがって!」

「別に舌入れた訳でもないのに、そんな動揺しなくても」

「舌ぁ!?」

「入れた方がいいなら、いつでも大歓迎だけど」

ボクの笑顔に兄さんはもう言葉にならない何かを呟いて、それから諦めたようにため息をついた。

「お前、なあ・・・」

ボクは昨日言ったのだ。ボクは兄さんの弱点になりたくないのだと。兄さんがその道を進むなら、ボクだってついてゆく。守られてばかりは性に合わない。ボクだって兄さんを守りたいんだと。

だいたい、ボクはいつだって兄さんの”共犯者”だったはずじゃないかと。

「そりゃ兄さんには兄さんの夢があったかもしれないけど、残念ながらとっくの昔にボクは兄さんが一番になってるんです。兄さんがボクのお嫁さんになってくれるっていうんだったら、兄さんの夢に付き合ってもいいけど」

「頼むから勘弁して、アルフォンスさん」

朝っぱらから酷く疲れた風情で、兄さんは肩を落とした。ボクはりんごジュースをグラスに注いでテーブルに置く。

「同じ気持ちを返せとは言わないよ。こればかりは仕方ないから。そういうの抜きにしたってボクが兄さんを大事なことに変わり無いんだし」

「・・・・・・・・」

「何?」

ボクが笑いかけると、兄さんは赤くなってうつむいた。何だろうこの可愛い人。

兄さんは結局何も言えずに朝食を終えて、今日もボクに物を壊さないでねと言われながら出勤して行った。

兄さんを見送ったボクは今日はお昼からだし、先に洗濯でも済ますかと、腕まくりをしていたら。

どかんと急にドアが開いた。

「にいさ・・・・」

走りこんできた兄は、ボクの頬を両手で掴むようにして引き寄せると、押し付けるみたいにしてキスをした。

「・・・・・・」

「オレだって!お前が大事なんだからな!だからやっぱり軍人になるのは反対だ!」

そうしてそれだけ言うと、またすごい勢いで出て行ってしまった。

「何だ・・・・・」

何なんだろうほんとにあの人は。

ボクは思わず笑い出しながら、この先の未来を考えた。

あの人と一緒なら、どんな未来でも構わない。急ぐようにして生きてきたあの頃と違って、自分たちにはもうたくさんの時間があるのだから。

ふたりでゆっくりと、歩いていける。

















「それって共犯者になれってこと?」「ダメか?」あたりの一連の台詞が好きです。初めの方はそんなとこを狙った訳でもないんですが、いつのまにか軍部の流れになりました(え)
08.3.20 礼