名前を呼ばれて振り向いた。横にいたアルフォンスも立ち止まる。
「今しがた、これが届きまして」
メイドが手に持ったそれは。
「・・・白薔薇?」
百本はあろうかという大きな花束だった。
********** Rosenzeit
「・・・オレ宛て?」
「そのように書かれておりますが」
エドワードへ、とシンプルに書かれたカードが目に入った。
白いレースの柄が型押しされた少女趣味なカードに差出人の名前は無い。
この家にエドワードと言えばエドワード・エルリックひとりなので、エドワードへのものであることは確かなのだろうが、残念ながらエドワードと親しく呼ばれるような仲の人間で、こともあろうに薔薇の花束などを送ってくる人物は思い当たらない。
いぶかしく思いながらもメイドの手から受け取ろうとした途端、横から花束を浚われた。
「こら、アル」
花束はともかく、この家の当主であるエドワードに対してそんな真似が出来るのはひとりしかいない。
「刺は抜いてある、ね」
兄の声は無視して、アルフォンスは重そうな花束を覗き込んでいる。
エドワードと名前を呼ぶほど親しくて、花を贈ってきそうな人物を強いてあげるとするならば、この弟しかいないが。
「・・・さすがにお前じゃないよな」
そう言うと、花束から顔を上げてアルフォンスが笑った。
「まさか。渡すなら自分の手で渡すよ。サプライズにしては中途半端だし」
「・・・っていうかな、頼むから渡してくれるなよ」
エルリック家の当主。マフィアの家のボス。そんなことを抜きにしてもエドワードは男だ。花束を貰う趣味は持ち合わせていない。
「・・・おい」
アルフォンスにそれを寄越せと手を差し出したが、どうやら弟は渡す気がないらしく、検分するように花束を眺めている。
名目上は兄のエドワードがボスの座にあるが、実際はふたりで主を務めているようなものだ。
兄弟に関しては上も下もあったものではない。エドワードが咎めても一向に構わないアルフォンスは、まるで兄の言葉など聞こえなかったかのようにメイドを呼んだ。
「重かっただろ、ありがとう。そろそろお茶にしてくれる?」
「はいっ。かしこまりました!」
「おーいー」
メイドに向かってにこりと笑いかけたアルフォンスに判りやすくのぼせあげた少女が、頬を赤くしながら廊下を戻っていく。
今にも走り出しそうな、それを堪えているような足取りだった。
「アルフォンス」
花束からカードを取り上げて、眺めたり透かしたりしている弟に言葉を投げるが、アルフォンスは一切関知しないといった顔でいる。
「開きかけの白い薔薇、ラッピングはペイルブルーとホワイトのペーパーにインディゴブルーのリボン、ねぇ。しかもベルベット」
「アル!」
アルフォンスは花束をエドワードに渡そうとしない。
「香りが強いね。ホワイトクリスマスかな」
「品種まで知るか!つかお前何でそんなに詳しいんだよ!」
「仕方ないじゃない。ボクだって昔は知らなかったよ。でも今は花だのなんだのを贈る機会は多いからね。・・・兄さんの代わりに」
アルフォンスが言外にエドワードを責めた。
マフィアというお家柄ならば自然に顔は広くなる。
同業者から貴族、政治家、軍に至るまで、普通の一般人も含め、様々なところに面識が出来る。
だがマフィアと付き合おうという輩は所詮、狸が多い。
口では美辞麗句を並べ立てていても、腹には一物も裏事情もある。だからこそ、外面は真剣に取り繕っているものなのだ。
やれパーティだなんだと招待されることもすることも多い。
顔を出すにしても出さないにしても、花や贈り物は嗜みの内で、そんな化かし合いの世界に興味の無い兄の代わりに全てを担うアルフォンスが、それらについて詳しくなるのは当然のことだった。
だが。
「・・・何、お前、薔薇なんか送ってるのかよ」
「女性には喜ばれるから花が一番楽なんだ。ブランヴィリエ夫人なんて薔薇以外は受け取らないし」
「ブランヴィリエ・・・ああ、フランス人のオバハン」
「それ、本人の前では言わないでね」
「薔薇なんて顔かよ」
「若い頃はパリに咲く一輪の薔薇と言われるほどうつくしい人だったらしいよ。薔薇に刺があるように、女にも刺がある。だから両方ともうつくしいっていうのが彼女の持論」
「買い倒してる毒薬が自分の刺だとでも言うつもりかよ」
「まあ兄さんの好みではないよね」
買い集めた毒で、彼女が気に入らない人間を次々と毒殺しているという噂は、誰もが知っている。薬そのものよりも、その噂が彼女の刺なのだろう。
「どうでもいい人間に薔薇なんか贈ってるなよ」
つっけんどんに言い返した兄に、アルフォンスは目元を和ませた。
「・・・兄さん」
「何だ」
「兄さんこそ、薔薇なんて貰わないでよ」
その上妙に嬉しそうな声を出すので、エドワードは更に声のトーンを落とす。
「・・・は?オレが欲しいって言ったわけじゃないぞ。勝手に送ってきたんだからしょうがないだろ」
その上でアルフォンスを睨みつけると、何も言い返さずにじっとエドワードを見つめた。
言い返されると思っていたエドワードには予想外の沈黙が落ちて、とりあえず引き続き睨みつけていると、アルフォンスが小さく溜息をついた。
「じゃあ兄さんは『どうでもいい人間』じゃなければボクが薔薇を贈っても構わないって言うんだ?」
言いながらアルフォンスは持っていた花束から薔薇を一輪抜き出す。
「特に怪しい仕掛けは無いみたいだよ」
安易にメイドの手から受け取ろうとしたエドワードの代わりに、アルフォンスがそれを確認してくれていたらしい。が。
それだけで納得するには。
「お前が誰に何を贈るのもお前の自由だ。お前が贈りたいのなら、好きにすればいい」
アルフォンスの送って来る視線が強い。
「薔薇にはね」
静かに見下ろしてくるアルフォンスは、多分、エドワードがこの世で唯一勝てない人間だった。
兄としての矜持があるので絶対に口にはしないが、わかりやすく言えば惚れた弱みだ。意味ありげな視線を寄越されるとそれだけで戸惑ってしまう。
「色ごとに花言葉があるんだよ」
凛と咲いた花を頬にさらりと寄せられて、思わずエドワードが受け取ると、指先でエドワードの顎を上げた。
「白い花の花言葉は『純潔』と『尊敬』。貴方にとても似合うね」
「何言って・・・」
しかもどうしたものか、いくら言ってもアルフォンスはこの調子だ。
「しかも聖母の象徴なんだよ。知ってた?」
愛しているかと問われれば愛していると答え、同じように言ってもらえれば嬉しいと思う。頬を寄せられれば手を伸ばし、目を伏せてキスを貰う。そんな関係を兄弟で築いてしまったことに、後悔する気持ちがちらりとも無いかと言えば、無いとは言い切れない。それでも。
もう失えないと思う程に相手に溺れているのも事実で、少なくともアルフォンスが求めてくれる限りは。それに答えたい。
だが、エドワードは男だ。アルフォンスの兄でもある。求められることは素直に嬉しいが、飾り立てられても戸惑うばかりで返しようが無い。
「もう、それはいいって・・・」
エドワードがアルフォンスから視線をそらすと、目の端で弟が微かに笑った。
くちびるを落とされそうな予感のままにエドワードはアルフォンスから身を引いた。
革靴が、やわらかな絨毯の毛足に取られてしまいそうな気がする。
繰り返すが、アルフォンスはエドワードがこの世で唯一勝てない人間なのだ。多分。
彼の求めには何を置いても応じてやりたくなるし、ずっと笑っていて欲しいし、全てをやりたい。一番幸せに。
そう思う兄の心を知っているのだろうか。どこでもここでもこんな気持ちにさせて、知っているとは思えないが。
アルフォンスから一歩離れて見上げると、弟は薄く笑みを浮かべたままひどく優雅に薔薇の花束を肩にかけた。
それに目を奪われそうになって、エドワードは目を眇める。何をしても無闇に絵になる弟だと思うのも、惚れた弱みだろうか。
すらりとした整ったスタイルは、少し細身だが、触れなくても質のいい筋肉に覆われていることが判る。
スーツはいつも、エドワードの分までアルフォンスが選ぶ。生地も、形も。
アルフォンスはセンスがいいと、世辞かもしれないが仕立て屋が誉めて、だからと言う訳でもない程には十年着たかのように着こなしてしまっている。
長い手足や整った顔もさることながら、近頃甘さの抜けてきた頬は精悍さが漂い、それでも母親似の優しい顔立ち、穏やかな笑顔。
・・・こうやって並べれば非の打ち所のない外見だ。これで内実が伴わないならお笑い種だが、外見ににじみ出る品の良さは内面からのものだ。
ふと気が付けば、えらくいい男に育ったものだ、とエドワードはつい感心する。
好みはあるだろうがたいていの女なら放っておかないだろう。
特に貴族などの特権階級の人間は、その自尊心から、何よりも貴族らしらを優先する。気品、風格、知識の深さ、高邁さ、優雅さ、そして華やかさ。
もっと判りやすく言えば横に置いて自慢できる人間。そんな人間を横に置きたがる。
特に貴族の女の横に立つのは難しい、何しろその女より目立ってはいけないのだから。
あくまでも添え物でありながら、引き立て役も勤め、女を退屈させることをせず、周りの人間にも愛想を、当然他の女になびいてはならないのだ。
(出来るか)
エドワードは考えながら馬鹿らしくなってしまう。ところがアルフォンスにはこれが出来る。その上外見の良さまで加わってくるのであれば、文句のつけどころも無いだろう。
アルフォンスに花を贈られて、喜ぶ女が多いことは想像に難くない。
多分、どんな女でも。アルフォンスが望めば手に入るのだ。それなのに、彼はエドワードが欲しいと言う。エドワードしか望まない。
もしエドワードが女だったら。
もっと話は簡単だった。弟が口にする惜しみない賛辞も受けてやれたかもしれないし、常に受け手でいてやれただろう。
アルフォンスは一歩の距離を保ったまま、またちいさな溜息をついた。
「これが紅い薔薇だったら何も思わなかったかもね」
「色が関係あるのか」
「紅い薔薇の花言葉は『熱愛』。貴方に焦がれる色だ。今更誰かが貴方に焦がれることなんて怖くないよ」
「怖い?」
エドワードは予想外の言葉を聞いて、思わず聞き返した。
「怖いよ。兄さんに薔薇を贈るならボクも白い花を選ぶ。それを他の誰かが選んだことが怖い」
「わからねえ」
「・・・うん」
多分に自嘲の笑みをアルフォンスは浮かべていた。自分でも馬鹿なことを言っているという自覚はあるらしい。
「もう一度言うが」
「うん」
「オレに花なんか贈るな。どうせくれるなら食えるものにしろ」
どんなに想っていても、エドワードにはアルフォンスの感傷についていけない。
本当にエドワードが女だったら、アルフォンスの言葉に一喜一憂してやれたのだろうかと思えば、こんな小さなことに相容れない自分に腹も立つが。
「けど・・・」
こんなものは。
エドワードは自ら離れた一歩を再び詰めた。アルフォンスの肩先。自分の目の前にある花束を無理やり奪い取る。
「兄さん!」
慌てるアルフォンスは放っておいて、エドワードは歩き出した。
こんな花束、余程そのあたりに叩きつけてやろうかと思ったが、花の汁が絨毯や壁についてしまったらあとの始末が大変だ。メイドたちに世話をかけてしまう。
食堂の扉を開けると、何人かのメイドがお茶の用意をしていた。入ってきたエドワードとアルフォンスに気付いて頭を下げるのに、一番近くにいたメイドに花束を差し出した。
「どこにお埋けしましょうか?たくさんあるので、お部屋だけじゃなくて広間にも分けましょうか」
たくさんの薔薇は、それだけで女の子の顔を綻ばせるものらしい。どこかうきうきとした面持ちで言ったメイドに首を振る。
「やるよ」
「・・・は」
年若いメイドがきょとんとした顔でエドワードを見上げる。小さくてやわらかい。そしてどこか華やかな。ウィンリィやリザもそこにいるだけで華やかさを感じさせる。
「あの」
「オレとアルフォンスから」
エドワードは不意に思い付いてまだ硬く蕾を閉じた一本をそこから抜き出した。
「わ、わたくしにですか・・・」
半分声が裏返ってしまっているメイドにエドワードは笑いかけた。
「ん、それだけあれば皆で分けられるだろ」
「あ・・・は、はい」
「ここはもういいよ。あとは自分でやる」
「かしこまりましたっ」
他のメイドたちと転がるように出て行った花束を見送って、手にした薔薇の蕾とアルフォンスがくれた薔薇を見やる。
女なら、薔薇を貰って素直に嬉しいと思えただろうし、似合いもしただろうが。
エドワードは。
「兄さん」
「・・・つまりお前は嫉妬したんだよな?」
呼びかけた声は無視して、アルフォンスに向き直る。
「別にオレは薔薇なんか欲しくないし、特にあんな、誰から来たものか判らないものなんてどうでもいい。お前が・・・怖がることなんて何も無い」
手にした薔薇を二本ともスーツの胸ポケットに入れてやると、弟はなにやら困った顔でうつむいた。
「・・・見抜かないでよ」
「何言ってんだ。自分で全部言ったんだろうが。薔薇なんか貰うな怖くなるからって」
「だいぶ間の会話を抜いたよ」
「要約したらそういうことだろ」
「そうだけど」
「バレバレなんだよ。そのままなんだよ、アルは」
「兄さんが嫉妬してくれないから、兄さんの分もしてるんだよ」
どんどん拗ねたようになってくるアルフォンスの口調に、エドワードは笑った。
どんなにいい男に育っても、こういうところは変わらない。昔から大人びて、聞き分けのいい弟だったが、それは大人や、友人たちに対してだけで、エドワードには違った。
手を伸ばしてアルフォンスの頬を撫でる。もっと手を伸ばして、アルフォンスの短い髪も撫でる。
「してるさ。お前がどうでもいいオバサンに薔薇を贈ってるのかと思うと、本気で薔薇なんか持てない体にしてやろうかと思うしな」
「物騒だね」
アルフォンスがそっとエドワードの腰を抱いた。
正直迷ったが、一応密室であることと誰もいないのでいいことにしてやる。惚れた弱みでなくともエドワードはアルフォンスには甘いのだ。
「でもそれ、嫉妬する所間違ってるから。『どうでもいい人』じゃない人に薔薇を贈ったりすることに嫉妬してよ」
抱かれたままアルフォンスの肩に額を落とすと、その胸元からエドワードが差し入れた薔薇の香りがした。
どうでもいい人間になんか適当にしておけばいいのに、アルフォンスはきっとTPOにあわせて花を贈るのだろう。
花言葉なんかまで覚えて。相手を喜ばせた方が話はずっとしやすいし、若さも容姿の良さもこの世界では武器になると判っている。だからこれはただの我儘だと判っているが。
「お前のどうでもいい人じゃない人はオレにとってもどうでもいい人じゃない人だろ」
ずっと守ってやりたいと思う。誰よりも幸せでいてほしいと思う。隙のない笑顔でスマートに動くアルフォンスももちろん愛おしいが、もっと甘えてくれればいいと、本気で思う。
アルフォンスがそうするのがエドワードだけにだからこそ余計。
「そうじゃなくて!」
アルフォンスが声を荒げる。肩を捕まれて顔を覗き込まれた。
「ボクは貴方以外いらない。何度言ったら判ってもらえるの。貴方以外の人なんて、みんなどうでもいいんだ。貴方が薔薇を欲しいといえば青い薔薇でもあげる。貴方がいらないと言うから、薔薇ぐらい誰にでも送る。ボクには貴方しか欲しいものがないから、だから」
怖い。
五センチの距離で、最後の言葉を吐き出すように言ったアルフォンスを、息も出来ずにエドワードは見上げた。
まっすぐに落とされたそれは、久しぶりに聞いた、アルフォンスの『弱音』だった。
「アル・・・」
痛いほど肩を掴んだまま、アルフォンスもエドワードの肩口に額を落とす。
母親に縋りつく子供のようだった。多分、本当にそうなのだろう。アルフォンスはエドワード以外に縋るものが無いのだ。
「・・・言わせないでよ、こんなこと」
意識的にエドワードはアルフォンスが望むような、例えば愛してるとか好きだとかいう言葉を口にしない。
それは、それこそ、エドワードの方こそ溺れてしまうと思うからだ。見境が、なくなると。
でも。
「ばかだな、お前」
「うん」
「あるいは精進が足りない」
「・・・判ってるよ」
「判ってない」
エドワードは溜息をついて頬から顎のあたりで、肩口に置かれたままのアルフォンスの髪を撫でた。
昔から甘えたで、その分甘え上手でそのくせ口がうまくて。誰にでも相手をしてもらえるくせに、エドワードがかまってやらないとすぐに拗ねる。どんなにいい男になっても変わらない。
一度だけ背中を撫でて肩を押す。両手を上げてアルフォンスの頬にあてる。
「・・・情けない顔してる」
「・・・だろうね」
「減らず口叩くなこの末っ子」
言いながら片頬をつねってやると、むっとした顔で抗議してくる。
「二人兄弟で末っ子も長兄も無いだろ」
文句を言った口に音を立ててキスをすると、その顔が途端に驚きに変わった。
(おもしれぇ・・・)
素直な反応が珍しく可愛らしくて何か言い出す前にもう一度くちびるを重ねる。
しっとりとしたその感触を味わうのもつかの間、くちびるを開かせるて舌を差し入れ強引に絡ませると、ようやく目の色が変わった。
遅い、と心の中で呟いて頬にあてていた左手をアルフォンスの目の上に被せる。
「お前を愛してるよ」
同時に囁いてやれば、判りやすくアルフォンスの体から力が抜ける。それに少し笑って手近にあった椅子に座らせた。
ようやくくちづけやすい位置に来たくちびるに、改めて自分のを重ねる。目蓋は塞いだまま。
それに抵抗でもしているつもりか、アルフォンスの腕が体に巻きついてくるが、気にしなかった。
女だったら、愛していると人前でも憚らずに言えただろうか。誰も見ないで、アルフォンスだけを視界に入れて、いつも触れて。
そうしたらきっとあんな不安そうな声を出させることもなく、もっと判りやすく信じさせてやれた。
「アル」
くちづけの合間に呼んではあいしていると囁く。言葉よりずっともっとちゃんと、伝わればいいと、何度も深くくちづけた。
いつもアルフォンスがしてくれるように丹念に口内を舐める。
く、と喉を鳴らすアルフォンスに心が震えた。なりふり構わず愛していると言うにはもう成長しすぎた。立っているところも、後ろも暗い。
例えばアルフォンスが女だったら、いつでも囁いてやれただろうか。多分それも無理だ。こんな暗い世界に大事な女を置いてなんておけない。それならせめて、家を継がずにいたら。
母を殺された復讐心で、こんな家の当主に納まった。アルフォンスは当たり前のようについていくと言って、反対しても聞かなかった。
それならむしろ当主になれば守ってやれるし、何より向いているだろうと思ったのに、それにも首を振られた。
どんなに言っても聞かなくて、結局アルフォンスまで巻き込んで家を継いで、スーツを着せて、銃を持たせて。
母と暮らした、あの平和な村でふたり、寄り添って生きていくことも可能だった。そうしたら、もっと気軽にアルフォンスに応えてやれただろうか。
しかしどんなに仮定したとしてももうそれは栓の無いことだ。
エドワードはエドワードとしてしか生きられない。それでも気持ちが無い訳ではない。むしろ、下手に伝えれば自分の気持ちに押し流されそうな程に。
*******************
「兄さん」
もう何度目になるのか、溢れ出してくる唾液を追って舌で掬い取った時、吐息とともに耳に囁きかけられて、くちづけだけで熱を帯びたエドワードの体にじんと響いた。
「もういいよ」
ダメだ、と思ったときにはエドワードの体を包んでいた腕に、身動きできないほど力が込められていた。
「兄さん」
請われるように再度呼ばれて、アルフォンスの両目をふさいでいた手のひらを外す。気付けば手も足もがくがくと震えていた。
「ア、ル」
声までも震えて、は、と短く息を吐くと溶けそうな色合いの金色がこちらをのぞきこんだ。
艶消しの金が熱に溶けるのを目にすれば、こちらまで足元から溶かされてしまう。思わず手を伸ばして首元に縋ると、やはりきつく抱きしめ返された。
「ごめん。ありがとう」
耳元で囁かれて、熱に浮かされた体からますます力が抜ける。体重をほとんどアルフォンスに預けてしまっているので、これ以上体が傾ぐことはないが、もう。
「アル、アル」
「うん」
アルフォンスのくちびるが耳朶を食んできて、手のひらが背筋を撫でる。
「ボクも、我慢できない」
掠れた声に本気で腰が砕けた。膝から落ちそうになるのをアルフォンスが支えて、次の瞬間にはふわりと体が浮いた。
アルフォンスが座っていた椅子に代わりに座らされたので見上げると、アルフォンスが頬にキスをしてきた。
「そんな顔をしないで。いいの?ドア。誰かが入ってきても」
言われて初めてここが食堂だと言うことを思い出した。
「あ・・・部屋・・・」
「それはダメ。言ったでしょう、我慢できないって。それに兄さんも歩けそうにないし、ね。抱いて運んで欲しいなら頑張るけど」
「・・・厳重に」
「もちろん」
アルフォンスに抱き上げられて部屋まで運ばれることと、天秤にかけてエドワードは了解を出した。錬金術師として、常に白墨を携帯しているアルフォンスが、それをケースから出そうとして、胸の薔薇に気付いた。
エドワードとの間で潰されてしまった花と蕾の二本。
「知ってる?白薔薇の蕾の花言葉は『処女の心』。枯れた白薔薇は『生涯を誓う』。どっちのつもりで兄さんはくれたのかな」
「誰が、処女だ!いいかげん、マリアから離れろ・・・っていうか」
上がった息の合間に噛み付くとくすくすとアルフォンスが笑う。
「『オレは花言葉なんか知らん』?」
「・・・判ってんなら、言わせんな」
それだけ言って力尽きる。
「でもこれなら知ってるんじゃない?」
アルフォンスは言いながらテーブルに白墨で錬成陣を書くと、薔薇をそこに置いた。小さく光った後に、綺麗に咲いた薔薇が残される。
「秘密事は薔薇の下で。これほど厳重な鍵も無いと思わない?」
SUB ROSA ――― ギリシャ神話に由来するラテン語。秘密の話をする時は薔薇の下で、という故事にしたがって、古代ローマでは部屋の天上に薔薇をつるし、今でも告悔室には薔薇のモチーフが刻まれる。引いては薔薇の下でといえば、内密にという意味に繋がるのだが。
「心理的に入れない気にさせるからね」
そう言いつつもきっちり扉を錬成してきたアルフォンスの手に薔薇はない。
「・・・お前、マジで飾ってきたのか」
「もちろん。・・・何?嫌だった?」
「嫌っつーか、何て言うか」
「ダメ押しみたいなものだよ。扉を錬成しただけじゃ誰かがドアを叩くかもしれないけど、薔薇の花が挿してあれば、何かあるんだな位は思うでしょ?うちの人たちは皆その程度の察しはつくから、だいじょうぶ」
言いながらアルフォンスは、今朝自ら結んだエドワードのネクタイの結び目に指をかけた。
「察し・・・って」
「貴方に触れている時は誰にも邪魔されたくないからね」
するりとそれを解かれて、シャツのボタンを外される。右手で外しながら、左手がエドワードの頬を撫でた。
「忘れないで。今日は貴方が誘ったんだよ。場所が場所だから辛いと思うけど、当分離して上げられそうにない」
「アルが、情けない声出すからだろ・・・っ」
余裕が無いと言う割には冷静な口調でアルフォンスは、エドワードの首筋から丹念に撫でてゆく。
「うん。そうだった」
「足りないんだよ・・・っ・・・ちゃん・・と、オレを見ろ」
「見てる。見てるよ。貴方しか目に入らない」
「は・・・っん、それ、なら」
熱がくすぶったままでいる体は、嫌になるほど判りやすくアルフォンスの手のひらや指先に反応する。
「ボクは小心者だから」
「・・・・・・」
嘘をつけと思ったが、くちびるを塞がれて言えなかった。
「たまにでいいから、さっきみたいに感じさせて欲しいな。兄さんからあんなキスをもらえるなんて思いもしなかったよ」
言いながらバードキスを繰り返す弟になんて人聞きの悪いことを言うんだと思いながらも、何かを言おうとする度にくちづけられるので、声にならない。
むしろわざとかもしれないと思い始めたところで、ようやくアルフォンスが開放してくれた。
「こうされたでしょ」
左手が目にかかって、視界がなくなる。
「兄さんの綺麗な顔が見られなくなるのはゴメンだけど、でも見えないことで兄さんの息とか兄さんの匂いとか体温とか、ずっと強く感じた。兄さんがどんな想いでキスをくれたのかも」
「判ったなら・・・!」
「ごめん。ボクはいつも兄さんに甘えてばかりだ」
両のまぶたを塞がれたまま、乱暴にくちづけられる。食われるかと思うようなキスは視界が無いせいもあって、胸の内に小さな恐怖が走る。だがそれと同時に。
消し去りようも無い炎が身の内で燃え上がる。それを見抜かれたかのように不意に胸元に痛いほど吸い付かれ、エドワードは声にならない悲鳴を上げた。捩った腰元が椅子から落ちそうになるが、アルフォンスが支えてくれる。
「でも、すごく興奮する」
そうすることで間近に見たアルフォンスの瞳が熱と融解する様に体中が震えた。
「兄さんも、すごく感じてる」
絶え間なくエドワードの肌を探る指先は、自然に涙を生む。
生理的なものだと判っていても、自分ではそれだけとは思えなくて、どうしていいか判らずに逃げ出したくなる。それでも呼ばれれば、全てアルフォンスの元へ投げ打って縋りつきたい気持ちになる。せめて。
「・・・ル・・・っ」
闇の中ならば。
「だいじょうぶ」
そんな浅ましい自分を隠してくれるのに。
「薔薇が全部隠してくれるよ」
「アル・・・」
「だから愛しい人。今だけは何もかも忘れて」
****************
「ふ、ぁ・・・、ゃ・・・」
緩やかに揺さぶられてずくずくと疼く、快感とも何とも知れない感覚には慣れる事が無い。一度溢れ始めた涙はあとからあとから止まらずに流れる。
辛い?と言われれば違うと首を振る。別に痛い訳ではない。本当に辛い訳でもない。ただ。
「ちが、う、か・・・ら、もっと・・・アル・・・」
言いながら自ら更に足を開くと、アルフォンスの上気した眦が苦しげに歪んだ。
「でも、すごく泣いてる・・・」
言いながら親指が水分を拭っていく。アルフォンスが言うのだから、余程泣いているのだろうと思うが、どうしようもない。
「いつもと、違う、から、だろ」
体がびくびくと震えてしまうのと同じように、勝手に溢れてしまうのだから。
「うん、でもね・・・そんなに泣かれると・・・無理に・・・っしてるみたいで・・・」
場所が場所で状況が状況なだけに、アルフォンスはほとんど服を着たままだ。
エドワードの方ばかり脱がされているがそれでもシャツは羽織ったままで、どうひっかかっているのか左足にはスーツのパンツが纏わりついたまま離れない。
「なん、なら手首、でも、縛るか?・・・んんっ」
そう言って笑うとぐいと更に奥に入り込まれた。
「ふあ、あっ、ぁ」
言葉も無く突然激しくなった動きに、止めようの無い喘ぎが出て広い部屋に響いた。
「うぁっ・・・は・ぁん」
目の前の体にしがみついて、与えられる感覚に耐える。アル、アルと名前をどれほど呼んでも声になっているのかどうかは判らない。ただ。
「兄、さん」
アルフォンスの熱い息だけが全てになる。
**************
気付くとベッドの上にいた。
(結局運ばれてやがる)
「誰にも見られてないからね」
「当たり前だ」
エドワードの視線に気付いたアルフォンスが、指先に二本の薔薇を弄びながらにこりと笑った。
「・・・寝ちまったか」
アルフォンスはベッドに座ってこちらを見ていた。どうしたと問えば寝顔を見てたんだと言いそうなので聞かないことにする。
「少しだけね。今そこに降ろしたところ」
「何時」
「もうすぐ夕食」
「ああ、もうそんなか」
「こっちに運ばせようか」
「いい」
答えて起き上がると髪が肩に流れた。シャツもパンツも着せられているし、きちんと拭かれたらしく体もさっぱりしているが、情事の匂いは離れない。
「バスルームの用意も出来てるよ」
その髪にアルフォンスの指先がかかる、薔薇を持ったまま。さらりと梳くと、愛しげに目が細められた。
「止めろ、ほだされそうになるから」
それを軽く払うと、つれないねと余裕の顔で言われる。くそ、さっきまであんなに可愛かったのにと思いながら立ち上がると腰を抱かれて止められた。
「ほだされてよ」
「アホか。これ以上ほだされてたまるか」
そう言うとくすくすと笑って手を離す。余裕と言うよりはどうも機嫌がいいようだ。むしろ浮かれている。先ほどさんざんほだされてやったのが効いてるらしい。
効いているのはいいが、エドワードは弟を想う気持ちに手を抜いたことなどない。
アルフォンスもそれは判っている筈なのに、どうして言葉にしたがるのか、されないと気がすまないのか、そこのところがよく判らない。
「言わなきゃ判んないなんて、ホントどうな訳?」
「っていうかその発言ってどこの亭主関白な訳?」
まるでお遊びのように返されて、エドワードはむっとした。
「文句あるのか」
「無いけど」
「ほんともう二度としねぇから」
「ええ!?」
本気で驚かれて、文句あり倒しじゃねえかと小突くとアルフォンスは子供のようにへへと笑う。
可愛い振りしてももう騙されないぞと、その手に大事そうに手に持ったままの薔薇を奪い取ってまだ綺麗に咲いているのを見る。
今は綺麗に咲いているが、きっと明日になれば散ってしまう。切花は所詮真理から切り離されて、自らの命を賭けてその短い生涯を全うするものだ。
人も同じ。
過去も未来も今ひと時がうつくしいからこそ、またうつくしい。
散り行くものだからこそうつくしいということもある。少なくとも刺があろうがなかろうが。色が何色だろうが。
どれほどのことがあっても、ただそのものであるということ。
「ねえ、本当にそれ、どうしてボクにもくれたの?」
エドワードの腰を後ろから抱いたまま、脇から顔を出して聞いてくる弟の頭をくしゃりと撫でて、エドワードは笑った。
「メイドにしかやらなかったら拗ねるかと思って」
「・・・拗ねないよ。あんな出所の判んない薔薇で」
「お前さっきの今でよくしゃあしゃあとそんなこと言うな。しかし、ホントに誰が送ってきたんだか」
独り言だと思ったのか、アルフォンスの返事はなかった。
薔薇の出所が気にならなくも無いが、とりあえずはもういい。
「・・・それよりもう離せ。兄ちゃんは風呂に入る」
「えー」
「えーじゃありません」
エドワードは未練がましい腕を振り切ろうとして、予想外に強い弟のてのひらに首を傾げる。
「守るから」
ぽつりと言われた言葉に聞きかえす。
「兄さんを、誰にも傷つけさせたりしないから」
「・・・アル?」
真剣な声音に、問い質そうとしたエドワードは、弟のにやりとした顔に出くわした.
「誰にも指一本たりとも触らせないよ。だから、お風呂、一緒に入ろうか?」
「・・・・・」
がす、と先ほど撫でた頭を殴ったら、殴ること無いだろ!と文句を言われたが、聞く耳持たない。
「殴られて当然だ」
「えー。兄さんのボディガードだよ?ずっと一緒にいなきゃ意味な・・・っ、痛い!」
調子に乗る弟を更にもう一発殴って、エドワードは今度こそバスルームへと移動した。
******************
故にエドワードは知らずにいた。
扉の向こうへ姿を消した兄を見届けた後、アルフォンスが兄に置いていかれた白薔薇を冷たく見やったことを。
白薔薇の花言葉には『純潔』、『尊敬』の他にも数あるが、多くは清らかなうつくしさを象徴する。だが紅い薔薇が情熱的な愛を表す一方で悲しみと呪いを意味するように、白薔薇にももうひとつ。
死。
「絶対に、守るから」
バスルームへと続く扉に向けて呟いた弟を、エドワードは未だ知らず。
どうか知らないままであるようにと、アルフォンスは願った。
2005.10コピー本で初出、2006.12MARIAに再録した奴です。
MARIAが完売してだいぶ経つんですが、マフィアはいいよね!という気持ちは今も大きいのでウェブに再録します。
今まで本からの再録っていうのはやってこなかったんですが、もう初出から15年だしね・・・。当時買って下さった方有難うございました。
コピー本としてはクリアファイルで装丁したりして楽しかったなあ。
2022.5 礼