>> prismatic 







ナイフのようだなんて、使い古された言葉を。












「アルフォンス」

まるでこれが最後の機会であるかのように、彼は静かに名前を呼んだ。

伸びた髪はゆるやかなカーブを描いて、彼の腰元まで落ちる。

真っ青な軍服に金色が散らばる様はまるで嘘事のようで、どこか現実感が無い。

作り物めいた兄の容姿は、長じてますます研ぎ澄まされて。


ギラリと光るナイフのようだ。















「どうかされましたか、中佐」

鋭い視線を真っ向から受け返したアルフォンスに、彼はさらに不機嫌さを増した。

「お前、オレの言ったことが判っているか」

「ええ、もちろん」

そっけなく頷きながらも、心中で思わず見惚れる。人形めいた容姿よりもなお惹かれてやまない、この強い視線。

「仰っていた資料はホークアイ大尉に渡しておきました。これからボクも手伝いに戻ります。中佐の仕事はマスタング准将が代わって下さるそうです」

言葉が終わらない内にガンッと激しく壁が鳴った。予想された怒りだったのでアルはそのまま続ける。

「経費削減って今朝もまた庶務から回ってきてるんですよ。壊したら給料から天引きですからね」

「アルフォンス」

「あのね、兄さん」

兄の言葉を遮って、アルは言葉を継いだ。自分のものより濃い、蜂蜜色の瞳をまっすぐに見返す。

「これは命令なんだよ」

アルフォンス・エルリックの兄、エドワード・エルリックは、史上最年少の中佐だった。

彼には常に史上最年少という言葉が付きまとう。

最年少国家錬金術師資格取得者として、軍部に入ったのがたった十三歳。本来なら士官学校に入ったばかり程度の年の若者が佐官になるなど有り得ないことだが、若さ故の未熟さなど感じさせない仕事振りで、今となっては実際不満を口にする者はほとんどいなかった。

「今日で兄さんの勤続は10日。拘束時間は・・・・・勝手に拘束されてるにしても200時間を越えてるんだよ。そんなことしてたら、准将とかが何してるんだって怒られるわけ。ボクだって准将に仕事を任せてたって進むものも進まないだろうとは思うけど、そこはリザさんとボクとでどうにかするから」

休んでくれと言外に込める。だが彼の目は太陽のようにギラギラと燃え滾ったままで、言うことを聞いてもらえそうな気配は無かった。

「もしもまだ働くって言うなら実力行使するよ。強制的に眠らされたくなければさっさと帰ることだね」

言いながらアルはシャツの袖ボタンを外す。無理にでも言うことを聞かせることは、やろうと思えばいつでも出来たことだ。体術では今だアルの方に一日の長がある。

それでも彼の意思を尊重したのは。

「兄さん」

自分が彼の弟だからだ。

いつでもしっかり地に足をつけて、まっすぐに前をみつめる。その様はまさに苛烈と呼ぶに相応しい。エドワードが、自らの道はそれがどんなことであろうと、自らで決する人だと知っているから。

腕まくりをして、今からでも相手をするぞという意気を見せると、ようやくエドの口がへの字に曲げられた。アルは、もう一押しと説得を続ける。

「二三日ならともかく、そろそろ限界だ。だいたいきちんと体を休めた方が、仕事の効率もいいはずだよ」

「・・・・・・・・・・・・・判ったよ」

一瞬の睨み合いはあったものの、譲らないぞという気合がどうにかエドを動かしたようだ。ほっとした息をついたアルフォンスとは反対に、渋い顔をする兄の気が変わらないうちにと言い募る。

「キッチンの鍋にシチューを用意してあるから、お腹すいたら食べて。横着しないでちゃんとお風呂に入ってから寝るんだよ。洗濯物は置いといていいから」

実際いい加減働きすぎなのだ。この10日間で彼が家に帰ってきたのはわずか2日。残りは仮眠室で睡眠を取っていた。しかも若さに任せて数時間とか言う単位で。

忙しいのは判る。実際アルだってものすごく忙しい。新大総統の就任披露日が決まって、その準備に追われているのだ。

それに合わせて道路をはじめもろもろの整備、警備訓練その他、いつになったら当日の段取りに入れるのだろうかと思うような状態で、その上今だ国家転覆を狙う輩の暗躍は激しく、その対応にも追われる日々だ。

エドは無駄に有能なせいでアレコレと声もかかるし、自ら手や足や頭を突っ込んでしまうことも多い。その上近頃になって、テロの噂まで聞こえ始めた。

国家錬金術師であるエドはその対策部隊のメンバーにも任命され、アルはもはやエドの顔を見ることすら難しくなってしまったのだった。

忙しさにかまけてうっかり彼の動向を見落としてきたが、誰の口からも聞こえる兄の名に、アルはふと気付いて青ざめたものだ。指折り数えてみれば、家に彼のいた形跡の無い日が何日続いていることか。

「さあ行こう、さあ帰ろう」

言質は取ったが司令部から外に出すまでは油断がならない。アルはエドの手首を鷲掴みにして、そのままロッカーに向かおうとした。下手をすると帰る途中に司令部の誰かに見つかって引き込まれる可能性もあるので、車を頼んで家のまん前で下ろせと言ってやらねばなるまい。

「お前も帰るんだよな?」

「・・・・・・・・は?」

ごちゃごちゃ考えていたアルの思考を、柔らかな声が遮った。聞きなおすのに振り返ると、掴まれた手を外してエドワードがにこりと笑った。

そうすると、研ぎ澄まされた美貌は一瞬にして花のようになる。まだ幼さの抜け切らない容姿のせいもあるが、彼にはそれだけの華やかさがあった。

そんな笑い方を軍部・・・仕事場ですることは滅多に無かったので、アルは思わず立ち止まった。戸惑うアルの手を再び取ったエドは、わざわざ指を組みなおす形に変える。

「一緒に帰ろう」

組まれた指先がじんと熱い。

「にい、」

「お前、オレを独り寝させたりしないだろ?」

「でも」

指先が意味ありげにアルの手の甲を撫でる。

「言わないよな?」

繰り返された言葉に、アルは思わず目を逸らした。

「いや・・・・っボクはあの、兄さんの分まで仕事が、マスタング准将に・・・・・・あれ?」

何を言っているのか判らなくなったアルの背中を、冷や汗が流れる。

アルの手の甲を誘うように撫でたまま、開いた手が長い髪を払う。

「〜〜〜〜〜〜〜」

たったそれだけの仕草に魅せられて、アルは近くの壁にどんと背中をついてしまう。忙しさに忘れていた欲望を簡単に目覚めさせた兄は、ひどく妖艶に見えた。

「アルフォンス」

そっと呼ばれた声に、落ちてしまいそうな自分を叱咤激励する。そんな夜を誘うような呼び方を、こんな真昼間にこんな場所でも出来る人だったのかと、考えることで気を紛らわせながら。

「わざとやってるだろ、兄さん」

目をそらしたアルの頬を、指先が戻した。その指先が首筋と胸を伝って、思い出したようにアルがさっき捲くった袖を戻す。

「だってお前がいないと眠れない」

ボタンを留める指先はそのままに、エドがそっと呟いた。嘘だ嘘だ嘘だ絶対嘘だ確実に嘘だ。むしろ罠だ。これは絶対、先ほどの意趣返しなのだ。先ほど。

「お前が眠らせてくれるって言ったじゃないか」

見上げる金色の目が甘く融ける。

「そ・・・・・・・・・・・」

(そんな意味で言ったんじゃない)

「アル?」

(でも)

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・リザさんに聞いてくる」

「おう。ロッカーで待ってるな」

アルは負けた。アルの言葉を聞いた途端、エドの笑顔が花のような鮮やかさに戻る。

さっき腕にモノを言わせると脅したのが気に入らなかったのだろう。手段を選ばないにも程があると言ってやりたいが、兄の色気に堕とされてしまうアルの方にも問題があった。

いや、でもアレは堕とされても仕方ないっていうか・・・・と心の中で言い訳をしていると、機嫌よくエドが続けた。

「風呂も入れてくれよ」

「うん・・・・・・・・・・・・・・あっ」

うん、じゃないよボク!と更に自らツッコミを入れている間に、エドはさっさと行ってしまった。

「どうするんだよ・・・・」

考えなくても仕事は山積み。しかしああ言ったからにはアルが共に帰らなければ、エドも帰らないだろう。

とりあえずボク以外にああいう手は使わないように言っておかないと、と現実逃避のように考えながら、アルは上司の下へと向かった。

















玄関の前で車を止めると、運転手が慌てたように外にまわって扉を開けてくれた。

「ありがとう。お世話になりました」

「いえ、お疲れ様です!」

軍曹の襟章をつけた青年は(とはいえエドワードよりも年上だろうが)緊張の面持ちで敬礼をする。エドはとにかく眠いようで、それを我慢しているせいかやたらと目付きが悪くなっている。

帰ると決まったら気が抜けて、睡魔が襲ってきたのだろう。アルが車を頼んでロッカーに回るともう、彼は自分のロッカーに寄りかかって中空を睨んでいるような状態だった。

仕事場でのエドは厳しい。その冷たさすら感じる美貌と相まって、寄ることすら許さぬ雰囲気を持っている。眠いだけだと知らない人間には、まるで激憤を抑えているように見えるようだ。

苦笑しながら、アルは敬礼を返す。先ほど准将たちに一緒に帰らせてくれと言った時の皆の爆笑を知れば、緊張どころか軽蔑されるに違いない。

「それでは明日のこの時間にお迎えに参りますので」

「よろしく」

子供でもあるまいし兄が嫌がるから一緒に帰るだなんて、言う方がどうかしている。リザの鶴の一声で了解を得ることが出来たから良かったようなものの、叱責を受けてもおかしくない。

反面、それほどエドワードが弱っていると判断されたのだろう。放っておけばいくらでも仕事をし続けるエドワードへの気遣いもあるだろうが、どうやら一緒にしておいた方が回復が早いと思われたようだ。

見送られるままに玄関に入ると、途端にエドワードが崩れ落ちた。アルは慌ててそれを支える。

「兄さん、あとちょっとだから頑張って」

声をかけるが、ほぼ眠ってしまっているエドは返事もしない。

「兄さん、起きてって」

エドは小柄な方ではあるが、それなりに育った体は、やはりそれなりに重い。

マットの横に転がそうとすると、むずかるようにアルの首に絡みつく。子供のような仕草にアルはため息をついた。さっきの軍曹が見たらどう思うことか。

「兄さん、ってば」

「ねぶいーーーー」

「自分が好きで働いたんだろ」

そう言うと、エドワードが薄目を開けた。眠いのはそうだろうが、どうもさっきのアレで甘えモードに入ってしまっているようだ。拗ねるように口を尖らせる。

「だって終わらねえんだもん」

困ったことにそれをちょっと可愛いと思ってしまう自分を叱咤して、アルフォンスは渋面を作った。

「適当に見切りつけるの、そういう時は。ほら、お風呂行くよ。ブーツ脱いで」

鋼の錬金術師、エドワード・エルリック。怜悧で冷徹。仕事には私情を挟まず容赦をしない。月光のようだ、と言い表わした人物もいる。

軍人の多くに鬼と恐れられる彼だが、何が月光だ。アルの前では。

「無理」

昔と変わらず、だ。

「無理な訳無いだろ!・・・・・・・手伝ってあげるから」

「もういい。ここで寝る」

アルがブーツの紐に手を伸ばすと、エドは頬を膨らませた。まるで子供だ。

「そんなこと、ボクが許すと思う!?一緒に帰ってきたからには、ちゃんと人間らしい生活をしてもらうからね!」

思わず叱り付けて、ブーツを脱がせ、上着も脱がせ、ついでにズボンも引き摺り下ろす。

「・・・・・・・・・・ん、するのか?」

どうせ脱衣所で脱がせることになるのだ。全部脱がせてしまえとシャツに手をかけたところで、彼が妙に色っぽい声を上げた。

眠いくせに何を言っているやらと、アルは呆れる。

「バカ。お風呂だって言ったでしょ」

しかもさすがに酔っ払ったオヤジのように大の字になった状態で言われても、その気に・・・・なれないこともないが、なる気は無い。

「えー」

何故か不満そうな声を上げるエドワードの額をべしっと叩いて、それでもシャツを脱がすのは止めて、結局バスルームでもうとうとしている兄の爪先から髪の先まで洗ってやって後、アルフォンスはようやくベッドルームまでたどり着くことができた。

ばふ、と気持ちのいい音を立ててエドの体がベッドに沈む。その衝撃でだろうか、エドが薄く目をひらく。

ゆらゆらと視線も定まらない兄に、アルは小さくため息をついて笑いかける。

「アル・・・」

「もういいから寝なよ」

こんなになってまで、彼はアルを離そうとしない。

「ここにいてあげる。明日はちゃんと起こすから、安心して」

何度かまだ湿った髪を撫でると、エドワードの指先がすがるように伸びてきて握った。殆ど力の入らないそれを握り返してやると、彼がゆるりと笑う。

「うん」

ほとんど声にならない頷きを返すと、すっと意識を落としてしまった。

すうすうと寝息を立て始めた兄の横に寝そべると、アルは息をついた。疲れた。だがようやく兄を休ませることが出来て、安心もしていた。

この年になっても寝ている時はすぐ腹を出す兄だが、今日はその力さえ無い様な様子で眠っている。青白い頬。髪の色でさえどこか精彩を欠いているようだ。

アルがそのしなやかな髪をかき上げたり、毛先まで辿ってみたりしても、よほど疲れているのか目覚める気配は無い。

ごはん食べてたのかな、眠ってないくらいじゃそれも怪しいなと思うと、腹の奥底の方がギリギリと痛んだ。

彼が今の仕事に一生懸命でいるのはいいことだと思う。それが軍の仕事だとはいえ、打ち込めることがあるのはいいことだ。

厳しい瞳で、仕事となればアルにだって容赦しない。その瞳がこの腕の中でだけ溶けるのを見るのも好きだ。

だが一端夢中になってしまうと寝食すら二の次になってしまう癖ばかりはいただけない。

兄さんのほっぺたはやっぱりピンク色じゃないと。などと実際口にすれば怒鳴られそうなことを考えてアルは、今はまだ蒼白と言っていいほどに白い頬に静かにくちびるを落とした。

「・・・・・・・・」

しかし、そうしてしまってから自らのセンチメンタルな仕草に照れて、アルはごまかすようにベッドから起き上がる。

こんなことをしている場合ではない。せっかく急の休みを貰えたのだから有効活用しなくては。

兄ほどでないとはいえ、アルも家には最低限しか帰っていない状況だ。洗濯も掃除も溜まっている。幸い今日は天気もいいから洗濯ははかどるだろう。作り置きのシチューにももう一度火を入れて煮込めば、きっともっとおいしくなる。

気を取り直して、兄に握られたままの手を外そうとした。

「・・・・・・?」

だがその手が、いつのまにかがっちり握られてしまっていて外れない。

無理やり外してもいいのだが、そうすると起こしてしまいそうで、アルフォンスは指を一本ずつ開こうとした。そうすると今度はもう片方の手がアルの体に縋ってくる。

(えー・・・と)

まるでアルが離れるのを阻止するように、指と腕と、その内足まで巻きついくるのを、アルはこの人起きてるんじゃないだろうかと思いながら、結局腹の上にまで乗りあがってきた兄の髪を梳いた。

眠りにくいだろうにとも思うが、思えば彼は昔からこうだった。

アルが鎧だった時も、あれだけゴツゴツとして冷たくて、突起まであったのに、妙にくっつきたがったものだ。危ないと言っても聞かずに、それこそ上手く収まっていた。

思い出してくすりと笑ってはみたものの、兄は変わらずとも、アルフォンスはちょっぴり変わってしまった訳で。

アルはあの頃のように感触も何も判らない鎧では無いのだ。エドワードがろくに帰って来ない分、あれこれご無沙汰なのも事実だ。ぴたりと隙間無くくっついた体のぬくもりは、どうにもこうにも精神的に悪い。

まるで誘うようにアルの手の甲を撫でていった指先の感触が蘇る。

「に・・・い、さ、ん」

「・・・・・・ル」

(タイミング良く呼ぶなー!!)

アルフォンスは心中で叫ぶと、べりっと兄を引き剥がして、その場を脱出した。










若いなボクも・・・・と自嘲しながらアルは洗濯物を干す。

同僚の面々を前にして言えば嫌な顔をされそうだが、アルだってあの兄の弟を長年やってきたのだ。それなりにセルフコントロールできているという自負がある。

ただ。

「体調万全ならって話だよね・・・」

明るい太陽の下で、アルは思わず独り言を呟いた。

一軒家のこの家にはささやかながら庭がある。洗濯物をきちんと外に干せるということは、長い旅暮らしを経験したアルにはとても幸せなことに思えた。

軍部勤めで、いつか望んだような穏やかな暮らしは出来なくても、きちんと家や仕事があって兄弟ふたり笑って暮らしていける。それはとても、とても幸せなことだ。

だが今日ばかりはさわやかに感じられる光も、やたら攻撃的に肌を刺してくる。

エドワードのお色気光線も同じだ。こちらが万全でいればこそ過剰なものに関しては交わす余裕も対策もあるが、こうも忙しくてはそれも無理だ。

それに兄自身だとて。

贅沢を言っていると判っているが、あの白い頬を見た後では、言いたくなってしまう。昔からそうだ、あの人は。

きらきらと。

兄を思う時、アルは光を跳ね返す水面を連想する。きらりきらりとひどく眩しくて、どこか胸が痛い。

人に在らざるような作り物めいた美貌。仕事に厳しく、決して容赦も妥協もしない。ナイフのように研ぎ澄まされた視線で、何もかもを切り捨てていく姿を、鬼だと呼ばれたり、月光のようだと言われたり。

だがそれも、軍人としては若すぎるエドワードが、新しく歩き始めた国とこの軍部で自分と弟を守るためには、そうやって恐れられるしかなかったのだということを、アルフォンスは知っている。

アルが体全てを「持っていかれ」て鎧の体だった時も、取り戻して一緒に働く今でさえ、兄はその身全てでアルを守ってくれているのだ。

「バカだな」

ぱんっと皺になったシャツをはたいて、アルフォンスは空になった洗濯籠を持ち上げた。

はあ、と大き目のため息をつきつつ、アルは兄の部屋を見上げる。想い人は恐らく今だ夢の中。きっと明日の朝まで起きてはこないだろう。

ずっとふたりで旅をしていたころは、お互いがお互いであればよく、また実際にお互いしかいなかった。片時も離れずに傍にいて、小さな変化も見逃さず、見過ごせずにいられた。

仕事をしているのだから忙しいのは当たり前で、アルの言うことは贅沢だと判っている。

自らのひどい独占欲に苦笑しながら、若いと言うよりボクもまだまだ子供なんだな、とアルはもうひとつため息をついて家の中に戻った。





「兄さん!?」

玄関を開けた途端、階段前に崩れ落ちているエドを発見して、アルは思わず叫んだ。

「うあっ」

それを受けて、びくりとエドワードが頭を上げる。

「どうした・・・?」

「それはこっちの台詞だよ!体辛いの!?何かあった!?」

きちんとベッドに眠らせたはずなのに、どうしてこんな所に。よもや階段から転げ落ちでもしたかと、アルフォンスは自分の考えに青ざめた。

慌てて駆け寄って抱き起こすと、アルを見上げたエドは、へらっと笑った。

「すげえ声で呼ぶから何かと思った」

笑えるのなら大事無いだろうと少しほっとしたものの、状況は全く持って解せない。

「何事かはこっちだよ、何でこんなところに寝てるの」

思わず責める口調になっても仕方ないと思う。ところが兄の方はアルのシャツに頬を摺り寄せる。

「だって目え覚めたらお前、いないから」

「そんな・・・洗濯してただけだよ。それでわざわざ起きてきたの?」

「だって」

エドはくちびるを尖らせた。まったく子供でもあるまいしとは思ったが、最早ろくに頭も動いていないだろう人間に何を言っても仕方ない。

「ほら、兄さんは戻って。まだ二時間くらいしか眠れてないだろ。せっかく帰って来たのに」

そう言うと、目を開けたまま寝てるんじゃないだろうかと疑いたくなるほど長い長い沈黙の後に、彼はこくりと頷いた。

「ひとりで戻れる?ご飯はシチューにするからね」

きちんと立たせてやると、のろのろと階段に足をかける。だいじょうぶかなと思いつつも、買い物にも行かなくちゃと考えたアルは、先ほど放り投げた洗濯籠を拾う。すると。

「い・・・・・・・・っ」

背中にどんっと衝撃が来た。

「た・・・・・・・・・・・・・・・」

ついでに膝をぶつけた。

「・・・・・・・・・兄さん」

膝からきた電気が頭の端へ抜けるのを待って、アルフォンスは原因を呼ぶ。ゆらりと先ほど収めたはずの怒りの炎が揺れたが、お構いなしに胸の辺りに腕が巻きついてくる。

「つーかお前がいないのがダメなんだろ!?」

「は?」

「オレは言ったぞ独り寝させるなって!お前だってここにいるって言っただろうが!」

エドはぎゅうぎゅうのしかかってきては訳のわからないことを叫び散らす。

「兄さんは戻って、じゃねえよ!お前も寝やがれ!」

「・・・・・・・あのねえ」

アルは巻きついた手を引き剥がそうとするが、力比べになれば、当然剥がすアルの方が不利だ。そう思ったらなんだか気が抜けた。

「兄さん、自分が子供みたいなこと言ってるの判ってる?」

「うるせえ」

背中に移ってくるぬくもりは、無条件に心を溶かすものでもある。兄を背負ったままアルは言った。

「一緒に寝ればいいんだね」

ため息をつくと、エドの腕の力がまた強くなる。その手を軽く叩いてやって、電車ごっこよろしくそのまま歩き出すと、先ほどまでの剣幕はどこへ行ったのかエドは大人しく着いてきた。

「・・・・・・なあ」

「何?まだ何かあるの」

ドアを開けるのに一端立ち止まると、背後からくぐもった声がかかった。尋ねても黙っているのでドアを開けると、それに紛れるようにぼそりと怒ってるのかと聞かれた。まさかここでそんな問いが出てくると思わなかったアルフォンスは、今度は思いっきり自分の腹に回っている手をはたいてやった。

「いてえ!」

「疲れてる人に怒ったりしないよ。だいたい、怒ってるのは兄さんじゃなかったの」

エドは答えず、背中に頭をぐりぐりと押し付ける。甘えモード継続中なのか、とアルは思う。

「離してくれないと寝られないんだけど」

ベッドを前にして、背中に兄をくっつけたまま。どう考えてもこれって変な構図だろうなと思いながら、アルは声をかける。

「ねえってば。怒ってないけど、あんまりしつこいと怒るよ?」

「アルフォンス」

そっと、エドが呼んだ。

それが。

まるで最後の機会であるかのように。



「お前オレの言ったことが判っているのか」



それはほんの数時間前に聞いた言葉。何故か心臓が跳ね上がって、アルフォンスはほんの少し身を硬くする。




「・・・・どういうこと?」




するりと、たった今までアルに巻きついていた腕が逃げる。彼の体温が離れてしまう。振り返ったアルを静かな視線が見上げた。白い手と、銀の手が両方でアルフォンスの手を取る。ゆるりと指先で撫でられて、先ほどのやりとりが思い返された。


(独り寝させるなんて言わないよな?)


(お前がいないと眠れない)


どきどきと、乱暴に胸を叩く心臓。そういえば、兄はどうしてアルを伴って帰ると言い出したのだろう。プライベートな時ならともかく、仕事場で仕事を優先させないことなんて、本当に滅多に無いのに。

「・・・・・・」

眠る為に暗くした部屋で、きらきらと、エドの瞳だけがひかる。

取られていない方の手でその頬を撫でると、まるで摺り寄せるように頭が傾けられた。さらりと流れる髪がアルの手にもかかる。そのまま首に腕を回して抱き寄せると、その体は酷く熱く感じられた。

あの日、取り戻した体で、久しぶりに兄に触れた。その時のように。

「もしかして、本当に眠れないの?」

問いかけると、ぎゅっときつく握られた手。腕の中の兄が何故か頼りなく思えて、アルはその体を強く抱きしめる。

独り寝が寂しいだなんて、アルだとて思うことだ。ふたりなら丁度いい家も、ひとりでいればやたらと広く感じる。ひとり眠る夜に身を粉にして働いているだろう兄を思えば、心配もする。そんな日々が重なって、本当に「眠れず」にいたのかもしれないと。

「それであんなにムキになって働いてたの?」

「違う」

簡潔な否定はむしろ肯定に思えて、アルは尋ね返した。やけにやさしい声になった。

「ずっと勤務時間が合わなかったもんね」

エドワードは少しの間黙ったままだったが、アルフォンスがそっと取られた手を外して両手で抱きしめると、それに押されるように呟いた。

「お前がいない家に帰っても意味無いから」

「・・・兄さん」

「何でかなあ。眠りが浅いっつか。仮眠室の方がよっぽど眠れる。アルがちゃんと寝ろっていうからオレはちゃんと仮眠室で寝てんのに、家に帰れなんて本当に時間の無駄だぞ」

移動時間も無駄だし。と付け足したエドのこめかみがアルの肩口につけられる。

「ボクがいたら、ちゃんと眠れる?」

「お前と寝るのが一番寝られる。でもそれは眠れないの関係なしに、昔からだぞ」

ぎゅうと、胸の奥を心臓ごとわし掴みにされたみたいだった。ドキドキとこれ以上無いほど高鳴っていた心臓がさらに激しく打つ。

どうして。

これ以上無い程依存してる相手に、まだ翻弄されるのだろう。

「ずっと眠れないでいたの?」

アルは悔しい気持ちで聞いた。アルが見ていない時間のことなのだからむしろ知らなくて当然なのだが、それでももし彼が辛い想いをしていたのなら、それを助けてやれなかったことが。

「最近気付いたんだよ」

「言って、くれればいいのに」

「だから、最近になって気付いたんだって」

「最近っていつ」

問い詰めるとエドワードは黙ってしまう。

どれぐらい。眠れずにいたのだろう。

しかも強がって変な誘い方をするものだから、アルはすっかり思い違いをしてしまっていた。

アルフォンスの手を離さずにいたこと、この部屋に入る時に怒ってるのかと聞いたこと。

「あー!もう!バカ兄!」

エドをぎゅっと抱きしめて叫ぶと、腕の中でエドがびくりとする。

「な、何だよ」

驚くエドを持ち上げて、ベッドに下ろす。自分も横に並ぶと、アルはエドを押し倒した。不思議そうな目が見上げてきて、キスしたい気分に襲われる。けれどもちろんそんな場合ではない。

「気付かなくてごめん」

「・・・・アル」

「今日はもう絶対傍から離れないから。安心して」

さっきだってそう言った。ここにいてあげるからと。アルはもそもそと毛布をひっぱり上げる。

アルは自分の肩のところまで兄の頭を引き上げさせて、「寝る体勢」を作る。いつもはアルのベッドでしていることだ。

ふたりで眠る時はアルのベッドを使う。少しだけそちらの方が広い。ただそれだけの理由で。

でも一緒に眠るのは、決してそこが広いからじゃない。

「それともやっぱりボクのベッドの方が安心?」

一緒にいるという約束。それを反故にした。また反故にされるんじゃないかと、疑われるのも仕方ない。

「・・・・いいよ、ここで」

「兄さん・・・」

けれどエドはやわらかに笑った。頬を摺り寄せると、それだけでくすぐったく笑う。そのあどけない様子に、胸を突かれた。

「ほんとにごめんね」

シングルのベッドは男ふたりには狭いが、抱き寄せて眠ることが出来るから、嫌ではない。

約束を。

「なあ」

呼びかけた目が優しく細められる。へへ、と小さく笑った声。

鋼の錬金術師。エドワード・エルリック。きらきらとひかる、ギラリと強い、うつくしく、厳しい、アルのたったひとりの兄は。

「なあに」

「お前、オレの言ってること、やっぱり判ってないな」

「・・・何?」

エドはそっと手を上げて、指先でアルの短い髪を撫でる。

「オレに、一番足りてないのはお前だ」

「に・・・」

「だーかーら、お前と一緒の方が眠れるんだぜ?」

呼ぶ声は、言葉にならなかった。兄の手のひらが、アルの頭を抱き寄せたから。

アルは胸がつまって泣きたくなった。幼い頃小さな結晶を覗いた、あの七色を目にしたみたいな眩しさだった。









「シフトを合わせて欲しい?」

「お願いします」

アルフォンスはロイの机に両手をついて頭を下げた。

「・・・・・今でも充分合わせているだろう」

「それは判ってます。でも今みたいにちょっとでも忙しくなるとそうも行かないでしょう」

「それは君、仕方ないじゃないか。アレは山ほど仕事を抱えているのだし」

ロイが言うところのアレは、今日は人一倍元気に、ほっぺたもつやつやで鬼中佐の名前を轟かせている。あんまり寝てないのに元気だねと言うと意味ありげに笑ってくれたものだ。

「そもそもそこが悪循環だと気付いたんです!」

ドンっとアルフォンスが机を叩く。

エドワードはアルフォンスがいない家に帰るのを面倒がる。すると司令部に居ずっぱりになり、受けなくていい仕事まで引き受けてしまい、帰れる日にも帰れなくなるのだ。

「そんなの、アレが勝手にしてることじゃないか。私には関係無いぞ」

「じゃあ准将、兄さんに余計な仕事を回さないで下さい。それだけでずいぶんマシになるはずです」

「・・・・・・いや・・・それは」

「もちろん甘いこと言ってるのは判ってます。でもこのままだとボクら共倒れです」

「落ち着いて、大尉」

穏やかな声が割って入った。

「何かあったの?」

「・・・・」

さすがにそれには答えられずに、アルは黙り込む。

「すみません。でももう決めたんです。ボクはこれ以上兄さんから離れないって」

あれ以上?とハボックが首でも絞められたような顔をした。

「だけどね、これ以上はシフトもどうしようもないわ」

リザが諭すように言う。

「人件費もずいぶん削られているから。もう二三人、人が増えればもう少しはどうにかなるかもしれないけれど」

正面からそう言われてしまえば、アルには返す言葉が無い。

「アレに何を言われたか知らんが、あんまり兄を甘やかすもんじゃないぞ」

ロイがそれに追随するのを、リザがちらりとそちらを見た。ロイがうっと固まる。

「けれど、准将の仕事まで中佐がすることは無いわね」

「・・・・・」

「ふたりとも体を壊さないようにしてちょうだい。エドワード君はどうしても無理をしがちだから、きちんと見てあげていてね。私が中将を見張っておくから」

「・・・・・・」

「ハイ!」

固まったままのロイは置いて、アルは笑顔で頷いた。










ある意味エドのひとり勝ち。

07.11.1初出 08.5.29改稿    礼