>> やさしいオレンジ 




目を開くと、顔中に髪の毛がばさばさとかかってうっとおしかった。

そこは暗闇。

寝るときに頭の下にあったはずの枕はもう無い。オレは寝相が悪いらしい。

アルがよく言う。

ただ、毛布だけはちゃんと胸のとこまできていた。

これはアルがかけなおしたんだろうかと思いながら目線だけでアルの姿を探す。

夜中に目が覚めたりすると、たまにアルがいなかったりする。

アルは眠らない。

眠らないアルが長い長い夜をどうやって過ごすのかオレはあまり知らない。そこまで口を出しちゃいけないんだと判ってる。

でも、夜中に目が覚めてアルがいなくて驚いた初めての日。






オレがアルの気配を探すのは、ほとんど無意識に等しい。癖みたいなもんだ。

そんなオレがアルを探して、奴を見つけられなかった時はほとんどない。だけどその日、アルはオレの傍にいなかった。部屋中。どこを見回しても。

アルがいない。そう思った瞬間オレは混乱した。恐慌に陥った。

その時は寝起きだったし、頭が動いてなかったということもある。とはいえ、自分でも嫌になるほどの取り乱しようだった。

オレはがちがちになって、どうしていいのか判らなくて、探しにも行けず、かといって待っていることも出来ずただ震えて。

実際、その時もう少しアルが帰ってくるのが遅かったらオレはどうなったんだろうと思わなくもないけれど、その辺はあんまり考えないようにしてる。なんかちょっと洒落になんないから。

そういう風にのんきに言ってられるってことはつまり、アルはまもなく帰って来たってことなんだけど。

ガチャリと扉が開いて、見慣れたでっかい姿が見えて。その瞬間オレは腹の底から溢れて出るような安堵感でいっぱいいっぱいになった。なりふりかまわず鎧の弟めがけて手を伸ばした。

ところがアルは飛びついてきたオレに、「ど、どうしたの兄さん」なんて普通の返事を返しやがったのだった。



オレの方はといえば、アルにほとんどすがりつく格好でぶるぶる震えていて、言葉なんか出やしねぇ。

「どうしたの?震えてるよ?寒いの?怖い夢でも見た?」なんて5歳児が自分のベッドに潜り込んできた時の母親みたいなことを言われても、それがこんな男前のお兄様に向かって放つ言葉か、っていうかお前はこんな夜中にどこへ行ってたんだとも聞けずにただ、「アル、アル、アル」って奴を呼びつづけていた。

残念ながらこのときばかりはオレも常日頃そうであるような男前のお兄様ではなかった。・・・・にも関わらずアルは、オレの背中とか頭とかそのでっかい手で撫でて。

挙句の果てに「だいじょうぶ。もう大丈夫だよ。ボクがいるからね。ずっといる。ごめんね」なんて男らしく慰めあやすようなことまでしてくれて、オレ様の弟はかくも男前であるということをオレに再認識させて。

その後オレはアルにものの見事に寝付かされてしまい、もはや怖い夢を見た5歳児となんら変わらぬ状況で翌朝目を覚まし、テーブルの上に朝食を広げていたアルにおはようの挨拶をされてしまったのだった。ちくしょう。







翌朝。

「よく眠れた?今日の朝ご飯はマフィンだよ。焼きたてなんだって。オレンジのジャムつけると美味しいって言うから買ってきちゃった」

おお、オレンジのママレードはオレも大好物だ弟よ。しかも焼きたてのマフィンにつけりゃ、そりゃ格別に美味しいだろう。だがな。だがその前に兄ちゃんはお前に聞かなければならないことがあるんだよ。

「アル」

「なに?」

「・・・・・・・・・夜中どこ行ってたんだよ」

昨夜。醜態を晒したオレはアルに軽々と抱き上げられて、ベッドに戻された。

こっそりまだ眠ることに恐怖を抱いているオレを見透かすように、ベッドに腰掛けてオレの左手を握り、背中を撫でるアル。

そんなことされて眠らない兄がどこにいるか。いるかも知らんがオレは寝た。それはもうまんまと眠らされて、安眠を余儀なくさせられたオレ。そのオレの起きるなりの言葉に、アルはきょとんとした感じで首を傾げた。

「どこって・・・・・散歩だから、どこってこともないなあ・・・・・」

「さんぽ・・・・・・?」

オレはアルから飛び出てきた悠長な言葉に、思わず力が抜けた。

「うん。そんなに出歩くことってないんだけど、昨日は月がキレイだったんだよね。真夜中になるとね、街の中誰もいなくてしんとしててね。ちょっと別の街みたいなんだよ」

「よく、行くのか?」

「たまーに、ね。夜、暇だから」

そう言われてしまえばオレは何も言うことが出来ずに、黙り込んでしまう。生身の体を持っているオレがどう頑張っても、一睡も必要としないアルに付き合えるわけがない。

オレは夜眠ってしまえるけれど、そんなしんとした街にひとり、長い長い時間をアルは過ごさなければならない。

アルがその時間をどう過ごそうが、オレに口出しできるわけもない。オレはほとんどうなだれて、ぼそぼそと最後の意地で兄貴らしいことを言ってみる。

「気・・・・つけろよ・・・・・。腹黒い奴が暗躍するのは夜中って、たいてい決まってる」

「判ってる。それにほんとに出歩いたりなんてめったにしないんだから。はい、兄さん。紅茶入ったよ」

「ん」

眠りもしない、食べることもできない。そんな体で、それでもアルは。

「紅茶にはちみついれようね。このはちみつもね。オレンジの花のなんだよ」

「うまそうだな」

「でしょ?」

ふふふ。と機嫌よさそうに笑うアルにオレも笑いかけてテーブルへ移動する。

「怖い夢なんてとんでっちゃうくらい美味しいから」

眠ることも、食べることも、感じることも出来ないからだで、どうしてそんなにお前は優しくいられるんだ。

「・・・・・・・・・・・・・・アル」

「あっごめん!もしかして忘れてた?思い出させちゃった?」

「違う。違うよ」

ティースプーンにひとさじのはちみつを入れたアルが突然慌て出す。

「アル。こっち来い」

「うん・・・・・?」

向かい側から呼び寄せて、隣に立った大きなアルの仮初の体に頬を寄せる。冷たい体。熱を持てない体。

「オレは怖い夢なんて見てない」

「そうなの?でも凄く震えてたよ。・・・・・・寒かったの?どこか痛かったの?」

違う。お前がいなかったから。お前がいないなんて、確かにそれは悪夢みたいなものだけど、悪夢よりずっと悪い。

傍にいろ。ずっと。離れないでくれ。ずっと。

昼も夜も、起きてても、眠っていても。お願いだから。オレの傍からいなくならないでくれ。

「寒くない。痛くもない」

言い募るオレの頭を、アルは昨夜そうしていたようにゆっくりと撫で続ける。優しいお前。優しすぎるお前。夜もずっと傍にいてくれと言えば、きっとそうしてくれるんだろう。

だから。

「オレはだいじょうぶだから、あんま心配すんな」

だからオレはそんなこと、ぜったいに言わない。

ただでさえ、そんな鎧に縛り付けて、オレのエゴに縛り付けて。そんなお前をこれ以上。

せめてオレが眠っている間は、オレから解き放ってやりたいよ。

オレが顔を上げて笑ってやると、アルはオレをじいっと見ていたようだった。が。

「やだ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・オイ」

オレの精一杯の言葉は簡潔に否定された。

「心配するなって、そんなの心配するに決まってるじゃないか。昨日の兄さんは自分で自分の顔を見て無いからそんなこといえるんだよ。ひどい顔してたよ?怖くてたまらないって顔してた。兄さんならボクがそんな顔してるの放っておくの?」

アルの言葉はいちいちもっともで、オレには返す言葉がない。言葉がないが、でもな、オレにはやはり、オレなりの兄の美学という奴があってだな。

「オレは兄ちゃんだからいいの」

「そんなの横暴だよ。じゃあ弟には兄を心配する権利もないっていうわけ?それだったらボクは弟じゃなくたっていい」

「アル・・・・・・・・・・・」

アルフォンスは非常に聞き分けのいい、よく出来た弟で、他人様の覚えもいい。兄であるオレ様の方の覚えはだいたい散々で、オレは常に専制君主的で横暴で我儘放題だと思われている。思われているが、実際弟ならでは年下ならではの我儘さを発揮するのは常にアルの方だ。

「そんなならボクは兄さんの弟でいたって仕方ない。絶対やだからね!ボクだって兄さんのこと心配して甘やかすんだ!」

オレに対しての最大の武器【弟を止める】を持ち出せば兄が弱いのをちゃんと知っている。的確に弱点をついて、オレを甘やかすなんて訳の判らない我儘を主張して。

「何があったか言いたくないなら言わなくていいよ。でも心配くらいさせてよ。ボクだって兄さんを守りたい・・・・」

最後はそんな泣き出しそうな声を出されてそれで、ジエンド。

「バカだな、お前・・・・・」

こっちまで泣きそうになって、すっかりほだされる。

とはいえ弟に弟のずるさがあるように、兄には兄のずるさがあるんだ。

どれだけほだされたって、譲れないこともある。精々弱いふりをして、お前の願いをかなえてやることだって、オレの仕事なんだぞ。

「怖い夢見て震えてたなんてこんな年になって、弟に泣きつけるかっつーの」

そう言うと、アルがオレを伺うように見る。疑うな。信じてろバカ。と思いつつ、だがオレも伊達に奴の兄を14年も続けてないので。

「・・・・・ふふ。やっぱり怖い夢見てたんじゃないか」

アルはなんとか納得してくれたようだった。

「お前そこは知らない振りしとくのが男のやさしさってもんだろ」

「そうだね」

「次から気をつけろ」

「何言ってるの」

アルはオレから手を離して、長い腕でティーカップを取って来る。

「これを飲んだら怖い夢はもう見ない、ってさっき言ったろ?」

そういや、そうだったな。オレはそれを受け取った。揺れる琥珀色の液体。

「兄さんが強情だから冷めちゃったよ」

「そんなことないよ。ちょうどいい」

紅茶は、口に含むとふわりとオレンジの香りがした。

「いい匂いするでしょ?」

「うん、なつかしい匂いがする」

腕いっぱいに抱えたオレンジ。母さんが剥いてくれるオレンジ。皮に爪を立てると、オレンジの芳香が立つ。それをお前も覚えてるのか?覚えてるんだろう。お前は昔から頭のいい子だった。

いつか。

いつかお前がオレにくれるくらいの。







かちゃりと静かにドアが開く。あの時と同じように。

そうっと音を立てないように気をつけてるのが判る、大きな体をすくませるようにドアを入ってくる。

「・・・・・・・・・・・・・・兄さん?」

ベッドの上でぼうっと目を開いてるオレに気付いたアルが声を潜めて呼びかけてくる。

「起きてたの?まだ夜中だよ」

「・・・また・・・散歩か?」

かすれた声が出た。起きてすぐだから。アルには無い、オレが生身の体を持つ証。

「うん、ちょっとだけ。なんだかいい夜だから」

「・・・・・・・・・そうか」

外にはお前の長い夜を慰めてくれるものがあるのかな。もしそうなんだったら、オレは何も言わない。

今でも、お前が視界にいない目覚めには慣れないけど。

「・・・・・・・・・兄さんは?眠れない?」

「いや・・・・・・・何か急に目が覚めた」

「そう」

オレ様の男前の弟はあれ以来、怖い夢を見たの?なんて言わない。からかい半分でなら言うこともあるけど、ほんとにオレがダメな時はどうしてか伝わるみたいだった。

ほんとにとんでもなく出来た弟だと思う。

そんなことを言わない代わりに、大きな手のひらを伸ばしてきて。

「アル・・・・」

「ん?」

お前が作る闇なら、こんなにも安心できるのに。

額と、前髪のあたり、指先で。

「いつかさ」

いつかお前がオレにくれるくらいの、優しさを。

お前に返すよ。だから。

「一緒に眠ろう。昔みたいに」

毛布を分け合って。あの頃分け合って食べたオレンジみたいに。半分ずつ。

お前の優しさと、オレの優しさを半分ずつで。

「・・・・・・・・・・・・・・うん」

アルは一瞬戸惑うようにして、だけど噛み締めるように頷いた。

「うん、兄さん」

オレはアルの答えに安心する。オレはやっぱりお前に甘えてばかりのダメな兄ちゃんだな。

借りばっかり、増えていく。

「ボク兄さんをぎゅってして眠りたいな」

「・・・・・・・・・・・・・・ぎゅ?」

多少聞き捨てならないことを言われた気はしたが。

酷く優しく触れるアルの指先に、眠りを引き寄せられていたオレは。

うーとか、ふーとか頷いたような頷いていないような返事を返して。

朝。

「おはよう、兄さん」

また。

いつもの朝を迎えるのだ。






バ●ァリンでさえ半分が優しさで出来ているなら世の中の三分の一くらいは優しさで出来ていると思う。
そんでもってそれが全部兄弟に優しいといい。お互いが必要不可欠なのに、お互いを想いすぎてる兄弟だと思うから。
でも甘え上手なのも我儘なのもアルだろうなぁ。兄さんはとても不器用だと思います。だいたいにおいて、下のほうが世渡り上手ですよねー。
私的にはもう兄弟がふたりでいれば出来てようが出来てなかろうがなんでもいい・・・・・・んですが、アルが兄さんを抱きしめて眠る日もそう遠くない感じ(笑)
05.3.19 礼