雨は夜半から降り続いて止まずにいた。
夏の雨は風景を滲ませて、街はどこか遠い。だから、それを見つけたのは、多分、本当に偶然だった。
かたり、と静かな音が後ろから聞こえたのに振り向いたのも。
「それ」は街の色に馴染んで、どうして見つけられたのかは判らない。
だけどボクは振り向いた足をすすめて、そのワインの木箱に近づいた。
「いたたたたた。いたい。ちょっと、痛いってば」
ボクの服に爪を立てて抵抗する子猫にボクも抵抗して、えいえいとその手をつつく。
にゃ、ともぎゃ、ともつかない声を立てる子猫はつまり人が怖いらしい。
「ダメだよ。そんなこと言ってもあんなとこにずっといたら風邪引くでしょー」
ボクはそう言って、ドアの鍵を閉めてから手を離してやると、凄い勢いでボクの腕から飛び出してボクから離れた。
「そこまで警戒するー?」
言いながらとりあえずその子は放っておいてバスルームにお湯をためる。あたためてあげないとと思ってのことだったけど、絶対嫌がるんだろうなぁと思うとちょっとため息が出た。
この子が入っていたワイン箱は、雨の吹き込む街角に置いてあった。
人に捨てられたんだと一目でわかった。
ワイン箱中にぼろきれと一緒に塗れるように入っていた仔猫は毛色はくすんだグレーで、大きな箱には不似合いに小さかった。
いくらぼろきれに身体を包んでも、濡れては意味がない。思わず傘を差しかけて覗き込んだボクに、その子は反応を示さない。
一瞬ひやりとして指を伸ばした身体は驚くほど冷たく、雨を含んだ毛先が束になって絡まっていた。
片手で余るくらいの小さな仔猫を抱き上げると、その子はぴくりと動いてボクの手の上で警戒するような態勢をとろうとして落ちかけた。
慌ててそれを掴むと、目やにでくっつきそうなまぶたを精一杯開いてボクを威嚇する。
子猫は目まで薄いグレーだった。こんな風にけぶった風景の中で見ると、溶けてしまいそうな色。
「だいじょうぶだよ。何にもしないよ」
そう言ったって伝わるわけなくて、その子はボクに向かって低く唸りさえする。こんなに小さいのに、よっぽど嫌なことされたのかなと思うと可哀想になる。
「君が嫌だったら、飼ったりしないから。今晩だけ家においで」
そう言って無理やり連れて来たのはいいんだけど。
ぎにゃあーーーーーーーーっととんでもない声を出して嫌がる子猫はカーテンに取り付いたまま離れてくれない。
「ちょちょちょっと!こないだ買ったばっかなんだよその遮光カーテン!高いんだからね!」
「にゃーーーー!」
「にゃーじゃないよ!」
あんまり無理に引っ張ってカーテン破られるのも困るしで、ボクは一瞬カーテンごと洗ってやろうかと思ったけど、カーテン外したあとにまた逃げられたらすっごいムカつくし。
「判った。もう判ったからな!待ってなさい!」
ボクはバスルームに駆け込んでってバスタブにタオル突っ込んだ。
ぎゅっとタオルを絞って子猫の元に駆け戻ると、えいとタオルで包んでやる。
「ふにっ」
「ふにってナニソレ・・・」
急に気の抜けた声を出した仔猫が急にずるずると床に落ちる。
「ああ、あったかかったんだ?」
寒くて冷たくて、体がちがちになってる時、あったかいとこ行くと力抜けるもんね。
「でもこれはすぐ冷えちゃうよ。ちょっとの我慢だから、ね?」
かぴかぴになってる額のとこ、指先でゆっくり撫でてやって、その後は勢いでタオルごと子猫をバスルームに連れて行った。
で。
「ぎゃーーーーーーーーーーーーっ」
お湯につけた途端、猫が叫んだっていうのはお約束の話。
ぶくぶくと泡立てた手の中で、観念したかのようにおとなしくなった子猫は。
泡を流してやると。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・汚かったんだねえ、キミ」
真っ白になった。
「えー。ちょっと待って待って待って」
新しいタオルで水気を取ってやって、ドライヤーで遠くから温風を当ててやる。
温かい風に多少脅えるような顔を見せたけれど、暴れ疲れたのか、やっぱりあったかかったのか、抵抗はしないで。
案外速やかに乾いた毛並みはふわふわして、ぬいぐるみみたいになった。特にちっちゃい手で顔を洗う姿なんか。
「か・・・・わいい・・・」
「にゃあ」
すっごいすっごいすっごい可愛い!
そもそもボクはかなりの猫好きなのだった。基本的に捨てられている猫って見捨てられない。それでつい拾っちゃうんだけど、今までうまく飼い主が見つかったりして長く手元にはいなかった。この子くらい美人だったらたぶんすぐに貰い手がつくんだろうけど。
「ねぇねぇ、キミ、うちの子にならない?」
この子を飼い出したら、簡単に他の子は拾ってこられないのも判ってる。でも。
「・・・・・・・・・・・・・・・・にゃ」
ボクの言葉がわかったのかわかってないのか、仔猫はつんと横を向いてやっぱりまた熱心に顔を洗い始めた。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・ちょっとごめん」
「ぎゃー!」
顔を洗うのに夢中になってる隙に後ろから尻尾を上げると仔猫が叫んだ。更に耳の中。掴んで口の中。
「うん、大丈夫そうだね」
生後は三週間くらいだろうか。少し小さいけど歯もだいぶ生えてるし、鳴き方もしっかりしてる。どうしてもおかあさんが必要だと思われる時期は脱しているようだ。毛艶もいいし、病気も心配なさそう。ごめんごめんと頭を撫でると多少警戒の視線。
強いて言えば、この人慣れしなさそうなとこだけが、他の家の子にするのには問題というだけで。でもこれくらいの警戒は捨て猫なら普通だ。
「人に上げるの向きなんだよねー・・・・」
うちの子にしたいと思うのはどの猫でもみんなそうだ。うちに来た子はみんな可愛い。
でも。
膝を抱えて白い仔猫をぼーっと、見ていれば見ているほどなんと言うかどんどん可愛く見えてくる。
仔猫特有の愛らしさを抜いたって、この子の可愛さと言えば。
「キミ、ほんと可愛いね」
こういうのを指して本当の一目惚れというのかもしれない。
「にゃ」
まるで答えるように鳴いた彼が(男の子だった)愛くるしい表情でボクを見上げてくる。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ボク等は数瞬そこで見つめあったけど。
「うちの子にならない?」
そのボクの誘いには。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・にゃ」
つい、とやっぱり横を向いた。そのあまりのタイミングのよさにボクは肩を落とす。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
これって拒否!?拒否されてる!?
「ままままって、ええとあの!そうお腹!お腹空いてない!?」
ボクはほとんど振られた女の子に縋りつくような体で、慌てて戸棚に飛んでいった。よく拾うので猫グッズは完備してある。
ボクは子猫用の猫缶を一個開けて食べやすいように解してお湯で伸ばすと、スプーンでカンカンと音を鳴らした。
「ごはん。食べられるかな?」
まだミルクの方が良かったかな。これだけ歯が生えてるならだいじょうぶだと思うんだけど。
ボクが彼とボクの真ん中辺りに皿を置くと、彼はちらりと皿を見た。
「おいしいよ」
声をかけるとちらりちらりとこちらを気にはする。あんな雨の中をどれくらいひとりでいたんだろう。お腹が空いてない訳ないよね。
「あ、お水もいるね」
ボクがいると気になって食べられないのかと、立ち上がって見えないところまで移動すると、彼がようやく皿に口をつけた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・何?」
それを見届けてから別の皿にお水を入れて戻ると、仔猫が皿の前で硬直していた。・・・・・・え?
「どうしたの・・・・・?」
思わず声をかけると、それが契機になったみたいに、仔猫は猛然と皿に顔を突っ込んで食事を始めた。あまりの鬼気迫る顔つきに思わず引く。
ボクが近づこうがなんだろうが、さっきまでの警戒はなんだったんだという感じでがつがつと食べつづけた彼は、綺麗に全て舐め取ると、ボクを見上げた。
「・・・・何?」
彼の前に膝をついていたボクを見上げて、たしたしと片手で。
「にゃー!」
たしたしたし。ボクの膝を片手で急かすように叩く。
「もしかして美味しかったの?まだ食べる?」
「にゃー!」
っていうか普通に食べすぎだと思うんだけど。と思いながらボクは立ち上がってもう一缶開けてやる。よっぽどお腹空いてたに違いない。
ボクが缶を開けている間、彼は興奮状態でボクの足の周りをうろうろしては急かすようにする。
「はい」
用意をしてやると、もうボクが傍にいようとなんだろうと構わないみたいだった。現金な話だ。
でも。
「にゃあ!」
どうも余程缶詰が美味しかったらしい。興奮覚めやらぬという食べ方だ。
「ボクん家の子になったら毎日食べられるよー?」
思わず悪魔の誘惑をしてみると、皿を綺麗に舐め終わった彼が、初めてボクをまっすぐに見上げた。
翌日彼はお腹を壊した。
当たり前だ。どう考えても食べすぎだもの。
ミルクでも大して飲めないものを、食べ慣れない固形物を急にあんなにたくさん食べちゃあね。
・・・・・・・・・・・・とか言いつつ。
食べさせたのはボクだから、責任は感じている。小さな体を更にちぢこませて、彼は作ってあげたベッドから出てこない。
ボクは申し訳ない思いで猫ミルクの粉を溶いた。やっぱり猫缶は早かったか。
「だいじょうぶ?」
ゆっくりと頭をなでてやると、彼は薄く目を開いてボクを見る。
小さく鳴くけど、あまり弱さは感じられない。心配するなとでも言うようだ。
仔猫はふんふんと鼻をならして、ミルクを匂うんだけど。
「・・・・・・・・・・・・いらないの?」
ぷいと横を向いてしまう。
「でも飲まないと」
「にゃ」
言いかけたボクを遮るみたいに仔猫は鳴いて、ボクは途方にくれた。
しっかり鳴く彼に飲む力が無いとは思えない。お腹が空いていないのだろうか。でも昨日、あれから何も食べてないのに。
飲まないなら無理やりにでも飲ませないわけにはいかない。スポイトで吸い上げて口元へもっていくけど、嫌がる。
「なんで・・・・」
ミルクはまだあったかいし、ベッドもちゃんと保温してる。それとも足りないのかな。
仔猫はとにかく栄養がいる。成長期だから、成猫の倍も三倍も栄養がいる。
「飲まなかったら死んじゃうだろ」
言いながら顎を掴んで無理やり口の中に入れると、ぎゃーっと叫んで吐き出してしまった。しかもお腹壊してるとは思えない勢いでまた部屋の隅に逃げる。
まだ警戒しているのだろうか、それともミルクの味が気に入らないのだろうか。猫缶が気に入ったみたいだからそっちが食べたいっていう意志表示だろうか、それとも。
「だめだよ、出てきてよ、ごはん食べようよ」
ぐるぐる考えても答えが出なくて、どうしようか、猫缶を食べさせようか、でもまたお腹壊したら可哀想だし、やっぱり体調が悪いのかも医者に連れて行こうかと半分泣きそうになりながら見つめていると、仔猫がカーテンの隙間から顔を見せた。
「うう、可愛い」
こんな時にでも思わず言わずにいられないほど仔猫は可愛い。まんまるい目でボクを見上げると、小さく鳴いて、ざりざりとボクの投げ出した指先を舐めた。
「ううう、可愛い〜」
そうっとお腹のとこから抱き上げると、彼は全然抵抗しないで大人しくしている。
「・・・・お腹、痛くないの」
「にゃ」
「お腹空いてないの」
「にゃ」
「答えてくれるけど全然わかんないよー」
どうしてボクにはこの子の言ってることが判んないんだろう。
「にゃあ」
仔猫はボクの鼻に精一杯手を伸ばして、たしたしたしとまた叩いてきた。
「なに?」
首を傾げると、彼は軽い身のこなしでボクの手の中から飛んで、ベッドの所まで駆けて行き、まだミルクの入ったスポイトをていっと前足で払い、ベッドをていっと叩いて、皿をここからどけろと言わんばかりの行動を示した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・もしかしてミルク嫌い?」
「にゃ!」
「他のなら食べる?」
「にゃあ!」
「・・・・・・・・・・・・」
わわわわわかんないけど、わかんないけど、判ったかも。
「ちょっと待っててね」
ボクは慌ててミルクの皿を持ってキッチンへ立ち、少し考えて卵黄を潰す。猫缶を上げるのは、ボクがまだ怖い。
「これならどう?」
ボクがそれを出すと、仔猫はふんふんとまた中身を嗅いで、恐る恐るというようにそれを舐めた。
一瞬なんだこれみたいな顔はしたものの、鬼気迫る顔つきで見ているボクを見た後は、大人しくそれを舐め始めた。
「よ、か・・・・・・った・・・・・・」
お腹の調子もほんとに大丈夫みたいだし、昨日の今日で気は抜けないけど!
「ね、美味しい?美味しい?」
彼と同じように床に張り付いて聞いてみると、ちらっとこっち見ただけの彼はまったく愛想なし。
「ね、美味しい?」
しつこく聞くとようやく答えるように鳴いてくれたけど、昨日猫缶を上げた時みたいな喜びは無い。
「あんまりなのかなあ・・・」
「にゃ」
わっ答えた。
「キミ頭いいね!」
こんなに器量良しで頭も良くってってちょっと無いよ!?・・・・・ボクが親ばかになってるっていう意見はあえて無視。
だって本当に答えてるもの。
仔猫はもういいってとでも言うようにしっぽでボクの頬を撫でた。
「えらいし可愛いし、君と一緒に暮らせたらしあわせだろうなあ」
目の前でゆらゆら揺れるしっぽに呟いてみたけど、やっぱり答えてくれないみたいだった。
仔猫はすっかり元気になった。
「今日からボク学校だから」
朝ごはんの時そう言ってみたけど、仔猫はまったく興味なさそうだった。
「ボクに飼われるのが嫌なら、他の人探してあげようか?」
聞いてみるけど反応は無い。そこまで徹底されるとむしろステキだよ・・・。あああ、ボクじゃなくても誰かに飼ってもらえば、いつでも会えると思ったのにな。
「じゃあ一緒に家を出る?」
「みゃ」
「そう」
それには答えてくれるんだね。
ボクは悲しくなりながら用意をした。一度外に出してしまえば、きっともう会わないんだろうなと思ったら本当に泣きそうだった。
猫は家につくというけど、つく程一緒に暮らしてなんて無いし、確かに彼にはペットなんて似合わない。こんなに小さいのにしっかりものだし、本当に猫らしい気質だもん。
「じゃあ行こうか」
ボクは彼を抱き上げて、玄関に向かった。ここまで来て決心が鈍る。言い訳をするのは簡単だった。
こんなに小さいのにまだ危険だとか、野良猫は嫌われるからとか。
でも。
「お腹すいたらいつでもおいで」
「・・・にゃあ」
最後だからと思って頭にキスしようとしたら本気で嫌がられた。美しい思い出も残してくれないのかキミは。
仕方なく玄関口で彼をそっと地面に置いた。
「元気でね」
声をかけたけど、彼はめまぐるしく動く外の風景に目を奪われてボクを見てはくれなかった。
仔猫は歩き出す。気をつけるんだよとか言ってみても良かったけど、そんなの未練がましいだけだ。
でも正直言うとしっぽを立てて歩く後姿にものすごくついて行きたかったけど。
・・・・・・・・・・・・そんなボクを見透かすように小さな姿はすぐに見えなくなって、ボクは大学に向かって歩き出した。
「元気ないわねえ」
幼馴染みに声をかけられて、ボクは無言で頷く。
「フラれた」
「・・・・・・・・・・・・猫に?」
さすがにウィンリィはボクをよく判ってる。
「うん、すごい可愛い子だったんだよ。かしこくてね、気位が高くてね、わがままでね」
「ふーん」
「小さかったんだ。まだグレイの目でさ。たぶんまだ目色も変わってる途中だよ。これからどんな色に変わるのか、見てみたかったなあ。毛色もまだ白かったけど、これから模様が出たかもしれないし」
「ふーん」
「だけど、ボクじゃダメだって言うんだよ。ボクはあんなに一緒に暮らしたいって言ったのに」
「ふーん」
「ウィンリィ、ボクの言うこと聞いてる?」
「聞いてない」
ボクのことはよく判ってるけど、ボクの言うことは全然聞いてくれない幼馴染みはそれでも、仕方ないんじゃないのと言った。
「無理したってうまく行かないわよ」
「うん、それは判ってる。だから、さよならもしてきたし」
「それにしては未練がましいじゃない」
・・・・・・やっぱり未練がましい?
「いつもだったらこれがあの子の幸せになるんだー!とか言って諦めるのに」
「うん、そうなんだけど。今もそう思ってるんだけど」
雨の中。グレイに霞む風景に溶けそうになっていた仔猫。それは偶然だと思っていたけれど、本当に偶然だったのだろうか。
だってあの時ボクが振り向く理由なんてほとんどなかった。小さな音が聞こえたけれどそれが聞こえたことですら。
「運命、だったのかもしれない・・・・・」
「それは妄想よ」
ウィンリィはピシリと言った。
「ちがうよボクとエドは運命で出会ったんだ!」
「・・・・・・・名前つけてるし」
「かっこよくない?エドワードってキリっとしててさ。エドはまだ生まれたてくらいの仔猫なのに、自分の信念を曲げないんだよ!ぴったりだよねー」
「わがままなだけじゃないの」
「エドのこと悪く言ったら、ウィンリィでも怒るよ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あたし、何でアンタがモテるのか、ほんと判んないわ」
「うーん、それはボクもよく判らないな」
「誰かとデートの時も猫優先のくせにねえ」
「シャーリーの時のことだったら、彼女は許してくれたよ。ちゃんと待ち合わせの前に連絡したし、それに朝から調子が悪そうだったんだから、仕方ないだろ。一時とはいえ命を預かってるんだから」
「そりゃ猫好きだって言ってアンタに言い寄ったんだから許さないわけにいかないでしょうよ」
「みんな許してくれたよ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・そう」
ウィンリィは何故か怖い顔になった。
「シャーリーのとこの猫、元気かなあ。あの子は女の子でね!おとなしくて甘えただったんだ。可愛かったなー」
「アルがそうやって、あちこちに色目使うから、エドは嫌だったんじゃないの」
「エドが一緒にいてくれるなら、他なんか目に入らないよ!」
「・・・・・・・・・・・・・それくらいの情熱を女の子に向けなさいよホント」
「・・・・ボクは女の子も好きだよ?」
「猫の次でしょ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「悩まないでよ!」
「・・・・・・エドの次、かなあ」
猫も女の子も可愛いから単純に好きだし、違うものだから比べたりはできない。そりゃ人は自分で考えて行動できるけど、動物はそうはいかないから、猫にかまける時間が多くなるのは仕方が無いと思う。
みんな猫好きだって言うから、それぐらい理解してくれてると思うし。
でもエドはちょっと、特別かな。別れるときはそりゃどの子とでもつらいけど、こんなに寂しいと思ったことがない。たった二日だったのに。それにあの、顔を見てるだけであんなに幸せになれる感じってちょっと無い。
「あーハイハイ。もう判ったから。運命なんでしょ。運命なら一度だけじゃなくて二度でも三度でも会えるんじゃないの」
ものすごく投げやりにウィンリィは言ったけど、その言葉にはボクは目からうろこが落ちた。
「そうだよね!」
そうだそうに違いない。ボクたちはもう一度会えるに違いない。
「お腹すいたらおいでって言っておいたし!」
片思いじゃないといいわねとウィンリィが冷たく言った。
「来ない、な」
ボクはひとり虚空に呟いたりしてみる。
エドが出て行ってしまって一週間。待てど暮らせど彼は姿を見せない。
どうしてるんだろう。まさか誰かに拾われたとか。いやそんなばかな、エドとボクは赤い糸で結ばれているはずだ。
そうでなければ。
「・・・・・・・・・・まさか」
あの、箱の中で丸くなっていた姿を思い出してボクはぶんぶんと頭を振った。エドは賢いから二度と同じ状況になんて陥ったりしない。それぐらいなら誰かに拾われて、ご飯貰ってるはずだ。
「うんそうだそのはず」
独り言を言いながらもボクの足は玄関へ向かう。彼のために買い込んだ猫缶片手に。
ごはんを貰えてるならいい。
そもそも彼はすごく美人だったから、きっと困った時の助け手は多いだろう。
「でも、わがままだしな」
あの気位の高さを理解してもらえず路頭に迷ってるなんてことは。
・・・・・・・・・無いに決まってる、よね。
玄関を閉めて、とりあえず彼と出会った場所へ。
小さかったけど、しっかりしてるから、彼を放したって大丈夫だと思ってた。人に懐かない猫もいる。家猫にしてしまうことがストレスになるならそうしたくなかった。
でも。
もし、万が一、彼がまた同じようなことになったら。
ボクは自分で自分が許せない。
あの日の木箱はまだ日の元に晒されていた。
一応覗いてみたけど、ぼろきれがあるだけで彼はいない。
「・・・・・・・・・」
こんな箱にいれられちゃって。元々野良だったのか、捨て猫だったのか。
勝手にお母さんや兄弟はいないって思い込んでたけど、違うのかなあ。ほんとはいて、今頃再会出来てたりとか。
それならいい。
それだったらいいな。
「まだあんなに小さかったのに」
放り出すなんていくら彼が望んだとはいえ、やっぱり無謀だったのか、と思ったところで後ろからギャー!と叫ばれた。
「エ・・・・!」
エドだー!
彼は発情期もまだの仔猫のくせに、そんな声を出しながらねこぱんちを仕掛けてくる。
「こら、ダメよ」
まだ短い足でべしべしボクの靴を叩く彼のあまりのかわいさに見とれていたら、そこに降ってきた声と、パンッと両手を叩く鋭い音。
びっくりしたのかエドはねこぱんちを止めてしまう。っていうかボクもびっくりした・・・。
「すみません。この子、気が強くって」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
綺麗な女性の手がエドを抱き上げる。
「どうしたの急に飛び出したりして」
綺麗な人だった。落ち着いた感じの、大人の人だった。指先がエドの額をくすぐって、エドは気持ち良さそうに目を細めた。
「・・・・・・・・・・・」
拾われたんだ。
ボクはショックで彼女の言葉に何も返すことが出来なかった。
彼女の手の中でエドは適当にあしらわれては、ピンク色の肉球でふにふにとじゃれている。決してボクには見せなかった仕草だ。
「・・・・・・・・幸せ、なんだね・・・」
運命だと思った。例え今離れても、一緒に暮らさなくても、ボクたちはまた会えるって、ボクたちなりの関係を築いていけるって。
信じてたけど。
それは全部ボクのひとりよがりだったんだ。そう思うと涙が出た。
「エド・・・」
ボクは彼に近付いて、そっと頭を撫でる。
「元気で」
ボクの人差し指の先が何度も額を撫でていくのを、エドはきょとんとした顔で見上げる。
指を離すのが名残惜しかったけど、このままいてももっと名残惜しくなるだけだ。一度別れたのだから、今回だって別れられるはずだ。
ボクは指を離して彼の感触の残る人差し指を同じ手の親指で擦った。
それで、何が変るわけでもなかったけれど。
踵を返してボクは歩き出す。運命は片方だけが感じても、きっと何の意味も無い。
ボクたちは、飼うとか、飼われるとか。
そんな関係を超えていけるような気がしてたけど。
でもエドが・・・・。
(そうだ、彼は【エド】って名前ですらない)
それはボクが、ボクだけの彼の呼び名だった。彼は、それをボクに呼ばれることではなく。
彼女が呼ぶ名前を選んだってことだ。
歩き出したボクは、そんなことをぐるぐる考える。
彼に呼びかけることのないまま、消えてしまう名前が悲しい。
(エドワード・・・)
いい名前だと思ったんだけどな。これ以上無い、いい名前だって思ったけど。
それも独りよがりだったってことだ。
ボクは正直ものすごく落ち込んだ。自分の浮かれ方がバカみたいに思えて。
正直ボクって猫に好かれる方で、初めての子にもよく懐かれるし、拾った子を誰かの手に託した後だって、会いに行けばボクのことを覚えてくれてたりする。だから、絶対彼にも好いてもらえるなんて思い込んでたんだ。
「待ちなさい!」
鋭い声が背中に飛んで、ボクはびくりと立ち止まった。
にゃあと声が聞こえて、慌てて足元を見下ろす。
「・・・・・・・・・・・」
ボクの踵の傍でボクを見上げる猫に、女性が慌てて駆け寄ってくる。ボクは一瞬躊躇したけど彼を抱き上げた。・・・うわあ柔らかい・・・って当たり前だけど!
ああ、でもダメだこのまま抱いてたら確実に手放せなくなる・・・!
ボクは激烈な努力をもって彼女にエドを差し出した。
けれど彼女はにこりと笑って白い仔猫の額を撫でた。
「よかったわね、ご主人様が見つかったのね」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「それなのに、どうしてあなたは逃げるの?・・・・・・・まさか」
彼女ははっと顔色を変えるとすばやい動きで、ボクの額に何かを突きつけた。
額にひやりと冷たい感触に、ボクはのけぞった。
だってそれは。
「どどどどうかおちついてっ!」
普通に生きていれば恐らく一生お目にかかることの無い、
「落ち着くのはあなたの方よ」
黒いマグナム。
なななななんだこの人っ!!
「ボクはお金はもってません!」
銃を持っているといえば強盗という非常に一般的な想像からボクは叫んだ。
「っ!」
それからボクの手の中できょとんとした顔をしているエドに気付いて慌てて彼を手放した。
「逃げて、エド」
急に離してもきちんと着地できたらしいエドがにゃあ、と頼りなげに鳴く。
「ダメだよ逃げ・・・・」
「落ち着きなさい」
ボクから離れようとしないエドにパニックになりかけたところで、彼女の手が下がった。
「悪かったわ。あなたがこの子を捨てたのかと思ったのだけど。違うようね」
懐から何も持っていない手を取り出して、彼女は言った。
「捨て・・・・・?そんなことするわけ無い!ボクは・・・!ボクはエドと一緒に暮らしたかったけどでも・・・・・・・・」
「でも?」
「エドが嫌だって・・・・」
自分で言ってボクはまた落ち込んだ。
「嫌?」
ああお願いだから繰り返さないで下さい。ボクの感じてた運命はボクの独りよがりだったんです。
「・・・そうは見えないけれど?」
彼女の言葉を追うように、にゃあと小さな声が聞こえた。
「心配してるんじゃないかしら?」
ボクのズボンに前足をかけて、どこか必死な様子でボクを伺う顔。
「・・・・・・・・・・・・・・・・エド」
しゃがみこんで指先をやれば、ぺろぺろと。ボクは感極まって彼を抱きしめた。
「エドー!!!」
「ぎにゃーーー!!」
「嫌がってるわ」
冷静な突っ込みにはっと気付くと、腕の中でエドがもがいていた。
「あっごめんエド・・・」
真っ白な毛を逆立てたエドは多少恨みがましい目でボクを見たけど、逃げようとはしなかった。
「エドー・・・・」
なんだよとばかりに、顔を寄せたボクの鼻をその肉球でぎゅーっと押さえてくる様が可愛くてまた涙が出た。
「ボクと一緒に暮らそう?」
「・・・・・・・・・・・・に」
「エドの好きな猫缶もあるよ」
エドは返事をせずにじっとボクを見ていた。
「・・・・・・・・・・・・・」
「大事にしますっ」
「・・・・・・・・・にゃ」
小さく鳴いたエドにもう一息とボクは頭を下げた。
「一緒に暮らしてくださいお願いします!」
「にゃあ」
しょうがねえなーと言わんばかりにボクの前髪のところにぎゅうと前脚が押し付けられた。
ボクはばっと顔を上げてエドを見る。エドの目はまだグレイのままで、でも少し、黄色が混じり始めているようだった。毛の色も、お日様の元で見ると、すこしベージュがかっている。
エドの成長の証を目の当たりにして、ボクは感動した。
「君がもっと大きくなるところを見てみたいよ」
そう言うと、エドの手がびっくりしたみたいにひょいとどけられた。
「・・・・・・・・・・どうしたの」
聞いてもじたじたとまた暴れて、エドはぴょんとボクの手から離れた。
一瞬慌てたけど、ひょいひょいと仔猫の割に身軽な仕草で少し前まで走ると、呼ぶようにもう一度にゃあと鳴いた。
呼んでる。
ボクはもうたまらなく嬉しくなってしまって、彼を追いかけた。足を踏み出し際、思い出して振り返ったけど、エドをつれていた女の人の姿はもう無かった。