>> 空回り

 

鋼のとケンカでもしたのかねと言われて、アルフォンスはため息をついた。

兄がいないというだけで、アルフォンスの心は荒んでゆく。アメストリス軍セントラル、そのさらに中央に位置するこの司令部で、目の前の男は相変わらず不適に笑った。









秋の雨は身に凍みるような冷たさを持っている。

機械鎧をつけているというのに、少しの雨は気にせずに走るエドワードの性分は、中佐という地位を得ても変わりはしない。

司令部で見せる冷酷そうな一面は彼なりにまずアルを、そして同僚や上司の立場を慮ってのものなのだが、一端決めたことは徹底する性格のエドワードらしく、私情を入れず容赦せず、厳しい顔で仕事に当たる姿には時折アルフォンスでもはっとさせられることがある。

かと言って彼は厳しいだけの上司ではない。人の努力を見逃さずに認め、責任もまず自ら被る。旅をしている間はほとんど頭を下げることなど無かった彼が、上司達に頭を下げて部下の許しを請う姿は、むしろ高潔にすら見えた。

だからそんなエドワードを恐ろしいと言いつつも密かに慕う部下は多い。個人的な気持ちを抜いても、アルフォンスも上司として尊敬できる人だと思う。

ところがここのところその上司の様子がどうもおかしいのだ。







「ホーネット基地所長でらっしゃいますか?こちらセントラルのアルフォンス・エルリック大尉です」

識別ナンバーを通した後で改めて名乗ると、受話器の向こう側からため息が聞こえた。

「ああ、失礼。こちらデイジー・ウッド少佐よ。悪かったわね、かけなおしてもらって」

ホーネットは東の国境の街だ。国境警備基地の所長が亡くなり、次の所長が決まるまでの間代理でエドワードが所長を勤めた。

次の所長が女性であるということはロイから聞いていたのだが、受話器から聞こえてきた声にアルフォンスは思わず目を見張った。

 

それはエドワードが所長代理を勤めていた期間のことだ。

兄が行ったからとてアルもついていくわけにはいかない。セントラルで准将に昇格しても相変わらずのロイがどこかに逃げたのを探している途中、彼女が禁煙の資料室でタバコを吸っている所を目撃してしまったのだ。

その際少しだけ言葉を交わしたのだが、名前は聞いていなかったし、まさか次期所長になる人だとも思っていなかった。襟章を見てアルフォンスと同じ大尉だということは判っていたのだが。

少佐と言うからには。

「昇進されたんですね。おめでとうございます」

「こんな東の果てじゃ左遷と変わらないわ。・・・・・って、よく判るわね、一度や二度話したくらいで」

人の声や顔を覚えるのはくせのようなものだ。鎧だった時は視覚と聴覚にほとんどを頼っていたので意識したことも無かったが。

「得意なんです。それに印象も深かったですし」

だが彼女に鎧だった時のくせですとは言えない。初対面の時にもそんなことを思ったっけとアルフォンスは苦笑する。それに印象が深かったのも本当だ。

「いい印象ならいいんだけど」

「悪くは無いですよ」

アルフォンスが答えた途端に沈黙が落ちた。

「・・・・・・・・あの時から思ってたけど、あなた人に好かれようっていう気、ある?」

かなり予想外の言葉だったので、アルフォンスは思わず首を傾げた。

「特に嫌われようとも思っていませんけど?」

「見た目はフェミニストっぽいのにがっかりね」

彼女にはどうも何か違う期待をされているようだ。

「ボクはひとりだけに良く思われれば充分なので」

そう言うと今度は向こうに苦笑された。そうは言ったものの、アルフォンスは概ね人好きのする性格だと言われることが多い。

穏やかで磊落。よく気がついてしっかりもの。自分でわざわざそういう風にしているつもりは無いが、あの兄のフォローに回っていれば必然的にそうなる。

今のエドワードは昔のように吼えて暴れることは無くなったが、冷徹な仮面を持っている分刺されば死ぬような毒のある攻撃をするので、フォローするのも骨が折れるのだ。

「つきあいの長い彼女と相変わらずうまくいってるようで結構だわ」

「おかげさまで・・・・・・・・・・・・あ」

「何?」

アルフォンスは無意識に内ポケットを叩いて呟いた。

「いえ、タバコ、お返ししようと思っていたんですけど」

「いらないわよ。せっかく上げたのに、吸ってないの?」

「ええと、取り上げられて捨てられました・・・」

「あら、じゃあ良かったじゃない」

禁煙の資料室でほんの少し言葉を交わしただけの彼女がタバコを押し付けていった。

確かに吸ったことが無いという話をしていたとはいえ、イマイチ真意がつかめなかったので、返そうと持ち歩いていたのを・・・・兄に見咎められたのだ。初めはタバコを吸っているのかと疑われた、ように思う。

「良かった?」

「ヤキモチでしょ?」

「ああ、ええ」

だが名前も知らない女性から貰った、不必要だから返そうと思っている、と言った傍から取り上げられて投げ捨てられたタバコの箱。

こっちを見ろとばかりにくちづけられたそのくちびるの柔らかさをアルフォンスはまだ覚えている。ヤキモチを焼かれたと言えばそうなのだろう。

あの時は、アルフォンスの方にもあまり心に余裕が無かった。二ヶ月ぶりの再会、その後の多少の無茶を反省していたところだったので、じっくり味わうことも無かったが。

「ケンカになったりしなかった?」

「ちょっと」

「ちょっとだけ?」

「・・・・・・・どうして残念そうなんですか」

「あら、長すぎる春にはいい刺激になるかと思ったのよ」

「無用のお気使いです」

「そう?」

「愛してますから。少しでも疑われたくないです」

「ほんっとつまんない男ねえ」

「そんなに言われるとさすがにちょっとヘコみますね」

「【彼女】にそう思われてるんじゃないかと思うからでしょう」

「他に理由がありますか?」

あの兄に限ってそんな言葉を持ち出してくるとは思えないが、やはり一番好きな人にはよく思われたいではないか。

「早く結婚でもすれば」

「ボクは今すぐにでも結婚したいんですけどね」

「・・・・・・・・・・この間提出してもらった爆破事件のレポートのことなんだけど」

呆れたような沈黙の後の強引な話題転換にアルフォンスは笑って答えた。

「はい、なんでしょう」




二ヶ月だ。

兄がホーネットに出張に出ていた間、アルフォンスはエドワードと別の生活を余儀なくされていた。

その間二ヶ月弱。

二三日というならともかく、一週間以上だって、離れることは滅多に無い。そんな自分達だったから、この期間はかなり堪えた。

兄にも堪えてるはずだと信じている・・・・が、案外平気そうな顔をしていたのは正直悔しい。

どれほど人に愛想のいい性格だと思われようと、何のことは無い。結局アルにはエドワードしか大事なものが無い。だからこそ誰にでも同じように相対できるのだ。

だがエドワードは違う。兄は何のかんのと言って結構人情家だ。人の苦労を嫌そうな顔で引き受けて、それでも絶対に投げ出さない。

だから仕事となれば。



「あれ、エルリック中佐は」

「なんだか広報の方でトラブルがあったって言ってそっちに」

「ええっ既に残業三時間越してるよ!?」

「そうなんですけど、さっきお帰りになるところを捕まったみたいで」

「・・・・・そう」

軍部ではできるだけ残業しないようにしましょうというのが最近のところのモットーになっている。どうも【市民に愛される軍部】とかいうものを本気で実行しようとしているらしい。

前体制が崩壊して以降、急速に軍事国家としての色は失われつつあるが、それでも大衆の為にあれとされた錬金術師が軍属になったことで狗と謗られた国だ。つまり軍が国民の為にあるのではなく、国民を圧するためにあったような国なのだ。それが愛されるとはまた中々難しい。

まあ残業が無いということはゴタゴタが少ないということで、つまりはいいことなのだが。

「ったくいつまでたってもトラブルメーカーっていうかトラブル引き寄せ体質っていうか」

ぶつぶつ言いながら広報室まで行く。アルはもうすぐ上がりだ。できるようなら兄と交代してやりたい、できないならせめて手伝いをと思ってのことだったのだが。

広報室は思いのほか静まり返っていた。

「失礼・・・」

ドアを開けたアルフォンスをその場にいた全員の目が襲った。視線の集中を受けてアルフォンスは驚いたが、まず兄の姿を探す。

だが探すまでも無かった。エドはその場の中心にいた。ほぼ同じ格好の軍人達の渦の中でもひときわ目立つエドワードは、人より華奢で小さいのは相変わらずなのだが。

「どうした、大尉」

ひかりを放つように華やかな金の髪に、鮮やかなブルーの軍服はよく映える。

「昼間に判を頂いた書類のことで報告が」

気軽に手伝おうかなどと言える雰囲気ではなかったため、アルは咄嗟に嘘をついた。机に浅く腰掛けていたエドワードが動いてアルを扉の外に出す。

閉まった扉の向こうを気にして、アルは押さえ気味に問うた。

「・・・どうしたの何があったの」

「・・・お前には関係ない。それより書類のことってなんだ」

「関係ないって・・・兄さんは残業しすぎだよ。代わるか手伝おうかと思って来たんだ。ずいぶん雰囲気悪いね」

「・・・・・・・・・・・必要ない。先に帰れ」

「そう言って昨日も帰ってこなかったのは誰だよ」

「遅くなったから仮眠室で寝た方がいいと思っただけだ。お前もちゃんと寝ろってよく言うだろうが」

「それはそうだけど」

それはそうなのだ。仕事が長引けば、食事をするところも、風呂も、寝るところも軍にはあるのだから、いっそ軍にそのまま居たほうが長く眠れるということはある。だが。

「毎日ここに寝泊りしてたんじゃ体を壊すよ。そういうことなら兄さんは帰ってよ、ここはボクが代わるから」

「一端引き受けたのはオレだ。途中で放り出すつもりはない」

「それなら手伝わせて」

「アルは、明日朝からだろう。こっちもすぐ終わるから先に帰れ。上司命令だ」



だから仕事となれば、エドワードは危険も自分の体も顧みないことがある。

軍部で身に着けた冷徹の仮面をアルにさえ、離さずに。

「本当に、すぐに終わる?」

「オレの手腕を疑う気か」

「・・・・・・・・・・・・わかったよ」

アルフォンスが頷くと、エドワードも軽く頷いていい子だとでも言うように一度だけその腕をたたく。

すぐに身を翻してしまう背中を、せめて扉が閉じるまで見送って、アルはため息をついた。

昔のように何から何までふたりでするという訳にはいかない。シフトだってかなり融通してもらっている方だが、それでもまったく同じ時間にはならない。

それも、たぶん普通の恋人同士なら、許容範囲内なのだろう。

一緒に住んで、職場が同じで。だから顔を合わせる時間は長い。だから贅沢だと判っている。

ここ何日かすれ違いが続いたくらいで、本当なら文句を言えるはずもないのに。


離れていた二ヶ月が長かったからだろうか。

とにかく傍にいたくて触れたくて仕方が無い。

兄のセントラル復帰以降はやっと傍にいられると、期待しすぎたせいかもしれない。帰る用意をして外に出ると、朝から続いていた雨は、今もまだ降り続いていた。

長雨になるのかな、と考えながら傘を開いたアルフォンスは、ふとエドワードが帰る時にまだ降っていたら困ると、ロッカールームにとってかえした。

合鍵を預かっている兄のロッカーにやはり置き傘は無く、アルフォンスはそこに自分の傘を入れた。

自分はいいのだ。生身だから。

兄がくれた体を粗末にする気は無いが、兄が濡れるよりはマシだ。

家路を走ることを決めて、アルフォンスはロッカーに鍵をかけた。




翌朝軍服を手にダイニングへ降りたアルは、その様子にため息をついた。兄の帰ってきた気配が無い。念のためにと作り置いた夜食も布を被ったまま冷えきっている。

(雨だったから・・・)

帰るのが面倒になったのだろう。朝食の用意をしながらそう考えるが、気持ちは沈む一方だ。

傘が無駄になったことや食事が無駄になったこと。

アルが良かれと思ったことが無駄になってしまったこと。見返りを求めた訳ではないが、それでも悲しい。

ロッカーの中の傘に兄は気付いただろうか。夜食は、置いておけば食べてもらえるだろうか。

見返りを求める訳ではないが、酷く悲しいのはたぶん、自分が滑稽に思えるからだ。

まるで彼に対してひとりで想いを募らせて空回りしているような。

今更。

アルはそんな自分を笑う。エドワードに言ってもきっと笑われるだろう。

その時。

「ただいま」

ガタガタと音を鳴らして玄関の開く音、ダイニングのドアを少しだけ開けて顔だけを出す兄の姿。

「兄さん」

「ちょっと早引けしてきた。さすがに限界。おやすみ」

言いたいことだけ言うと、恐らく自室に向かうのだろう。パタパタと廊下を歩く音がして。

ぱたんと。

「・・・・・・・・・おかえり」

言えなかった言葉を呟いてみたが、気持ちは上向いてこなかった。






「ケンカする暇もありません」

ケンカしたのかとロイに問われてアルは刺々しく答えた。

兄がいないだけで、兄の気配を感じられないだけで、アルフォンスの心は悲鳴を上げる。人の体に水と空気が必要なように、アルにはエドが必要だと、生身になってから切実に思う。


鎧の時より。

感じることが多いせいだろうか。


デスクの上で手を組んだ上司は薄く笑みを浮かべてこちらをからかう姿勢だ。気持ちに余裕があれば相手もするが、最早そんな余裕は無い。

「正確にはケンカもさせて貰えない、だろう」

「・・・っ」

そう思われますかと聞くと、意地悪げに笑う上司がそれ以外には見えないと言った。

軍部内にいる兄は上司だ。気心の知れた人たちだけの時や、二人だけの時はその態度を崩しもするが、基本的にはアルフォンス相手でも上司として接する。

元々軍部に入ったのも生身の体を得たアルフォンスの為なのだ。その軍部内で弱みを見せるわけにはいかないと、彼はその地位に常にふさわしくあろうとしている。どこからも文句の言えないようにと。

だから軍部内では仕方が無い。アルにとっても仕事なのだから、それでいいと思う。

だがこれほど私生活ですれ違うのは。

「兄さんは、ボクを避けてる・・・?」

「そうじゃないのかね。しなくていい仕事までして、家に帰る時間をずらしているように見えるが」

「どうして・・・・・」

「心当たりが無いとでも?」

そんなものある訳が無かった。ついこの間までは普通だったのに。

だいたい普通でいたってすれ違うことはいくらでもある。だから、いつからという決定的な瞬間が思い浮かばないし、・・・・何より兄は何か怒ってるだろうか。

「避ける理由も見当たりませんが、そもそも避けるなんて、兄らしくありません。怒ってるなら」

まず手や足や口が出るはずだ。いつもの彼ならば。

「ならば顔が見たくないとか、喋りたくないとか」

ロイがずらずらと並べる避ける理由について、アルはいちいち傷ついた。本当にあの兄にそんな風に思われていたらアルは立ち直れない気がする。

「そういう理由が君に無いのなら、鋼のの方にあるのかもしれないな。・・・あわせる顔が無い、と」

「そんなわけ無いじゃないですか!」

「私に言われても判らんよ」

自分が振ってきたくせに、さらりと意見を翻すロイに、アルは腹を立てるより可能性を消滅させることを選んだ。

「兄さんは今日は休みですよね」

「さあ、どうだったかな、ホークアイ大尉」

「次の勤務は明日の午後よ」

「急で申し訳ありませんが有給を下さい。失礼します!」

アルは頭を下げて、何にも構わずに部屋を飛び出した。なので後に残ったロイがにやにやと笑っているのに、リザが人の恋路を邪魔すると蹴られるらしいのでお気をつけてと釘を刺したのを当然知らない。






家までを全力疾走で走ってきて、アルフォンスは扉の前で崩れそうになる膝を叱咤した。

息が喉にからまる。軍の制服は走るには効率が悪すぎる。

一端唾液を飲み込んで、古びたドアの鍵を開けた。

軍部に徒歩通勤圏内のこの家は、築40年は経とうかという一軒家だ。セントラルでは一棟をいくつかに分けた居住が多いのだが、この家には小さいながらも庭がある。

兄弟ふたりで住むにはいささか贅沢だったが、人の体を得たばかりのアルには土の匂いが必要だろうと兄が選んできたものだ。

まだうまく体を動かせない頃合には、何とはなしに庭に出て日向ぼっこをしたり、少し体が動くようになれば、土いじりをして花壇を整えたものだった。もちろん兄との組み手もした。

想いを通じ合わせても部屋はそれぞれに持っている。仕事で眠る時間が別々になることがあるからだ。・・・・・一緒に眠れる時は。


兄の部屋の扉の前に立って、軽くノックをしてみる。返事は無い。

そっとノブを回すと、エドはぐっすりと眠り込んでいるようだった。脱ぎ散らかしたままの軍服、解いただけの長い髪。

ベッドに転がったエドの腹が見えていて、アルは小さく笑う。

相変わらずだ。

エドと一緒に寝る時は、ほとんどの場合アルのベッドを使う。アルのベッドの方が大きいからだ。そうして出来るだけ抱き寄せて眠る。

夏場などは暑い寄るなとつれないことを言われる上に蹴られたりもするが、気にせずに抱きしめるとその内エドは笑い出してしまう。

仕方ねえなと言って、抱きしめ返してくれて。

「・・・・・・・・・にいさん」

アルは呟いて、まだ少し震える膝を床に落とした。白いシーツに頬を落とすと、兄の寝顔も子供の時と少しも変わらない。

仕事場ではどれほど冷徹な表情を持つ上司でも、エドはやはりエドだった。

アルにとっては他でもない大事な兄だった。

「にいさんにいさんにいさん」

小さく呼び続けると、エドの目がうっすらと開く。

「・・・・・・・・・・・・・・どうした?」

寝ぼけたような口調でむにゃむにゃと言うのに、アルは擦り寄るようにして声をかけた。

「兄さん」

「どうした、何かあったのか?」

答える兄の声はいつものように優しくて、アルはそれだけで泣きたくなった。答えないアルに向きを変えて仰向いて、エドは息をつく。

「今何時だ・・・・」

言いかけてようやく目が覚めたのか、慌てて身を起こそうとしたところを体重をかけて倒した。

「何の真似だアル、仕事はどうした」

「兄さん」

抱きしめて耳元で呼ぶと、答えを返さないことにかピリピリとした怒りの気配が肌をさした。

「テメェ何サカってやがる。オレの質問に答えろ」

「今はお昼過ぎ、兄さんと一緒に寝ようと思って仕事は他の人にまかせてきました」

「はあ?」

小柄なエドは、アルフォンスが全身で押さえてしまえば身動きできない。

「だから別にサカるつもりはないけど、よく考えたらもう一週間近くキスもしてないよね」

言いながら耳朶を舐めると、腕の下のエドが息を詰めるのが判る。

「バカヤローそういうのがサカってるって・・・・・・・っ!」

顎の線をくちびるで撫でていって、くちづけを落とすと、髪をつかまれた。本気の力で引っ張られてアルは痛いと呟く。

「サカってるってんだよ!」

言い直したエドを見下ろすと、エドの瞳は怒りに満ちて光っている。

「だって好きだもん」

だがアルの感情は高ぶったまま収まらずにいた。

「好きだったらキスしたいのは普通だろ!兄さんは・・・・兄さんこそどうしてボクを避けるんだよ!」

避けられている、と思ったのはつい最近のことだ。ホーネットの件のレポートを出し、報告書がセントラルに返って来て、ひと心地ついた頃。

ようやく忙しいながらもいつもの日常が帰ってくると思い、実際帰ってきたと思った。だが見る間にエドは家にも帰って来れない程、仕事場でアルに笑いかけることすらしない程にバタバタとしだして。

「好きなんだよ。避けたりしないで」

もう一度、今度は離すものかと言う気合で抱きしめると、重い、どけ、とじたばたしていたエドが大人しくなった。

「にいさん」

「泣くなバカ」

声もさっきのようにまた、優しく響く。

「泣いてないよ」

どれほど忙しくても、いや忙しければ忙しいほど、エドワードは息抜きと称してアルの顔を見に来たものだ。

だが目も会わせず、必要最小限しか喋らない兄に、まさかとは思いながらも。

「ああ、兄さんだー」

「何なんだお前は」

言いながらついに笑い出したエドに、アルは安心して少し腕の力を抜いた。やわらかく抱きしめれば抱きしめ返してくれる腕が泣きたいほど嬉しい。

疑われるのが嫌な分、疑うこともしたくはない。自分の空回りを嘆くだけならそれでいいが、疑ってしまった自分が嫌だ。

「だって兄さんの匂いと感触と温度がする。何だかすごく久しぶりだ」

アルの言葉にエドが苦笑した。

「ほんとにお前はさー・・・」

「・・・何?」

「オレに言うことを聞かせたい時はおもいっきり甘えてくるのな」

「え、そう?」

呆れたとしか言えない声音で言われてアルフォンスは腕の中の兄を見る。そんなアルの髪を、頬を撫でて、エドは優しく笑う。

「自覚ねぇの?こんな顔して、あんな声だしといて?」

頬をつねられてアルは眉を寄せた。

「まあ、それにほだされるオレもオレだけどな」

「ほだされる?」

「お前に泣きつかれると弱いオレをお前は十分判ってるじゃないか」

「うん・・・」

自覚は無かったが、確かに自分は兄に甘えているのかもしれないと思いながら小さく頷いたアルを、エドはやわらかに目を細めて見た。ゆっくりとアルの頭を引き寄せると髪の生え際にキスをする。

「お前はオレを好きか?」

「大好きだ!」

「・・・・・・・兄ちゃんもだよ」

勢い込んで言ったアルをいとおしむようにエドはアルをまた抱きしめた。

「だから安心してもう寝ろって」

「・・・・・・・・・」

まさかそこに結論づくと思っていなかったアルは一瞬驚いたが、よく考えればエドは寝起きなのだった。しかもここ何日かろくに寝てないのを無理やり起こした。

「うん、ごめん、兄さん」

言った傍から聞こえてきた寝息に、アルは笑った。寝ているのをたたき起こして好きだと言ってもらって安心するなんて、この年にもなって情けない。だがこの溢れる愛しさは他に変えようが無い。

エドが重くないように、そっと体重を横に流してアルは自分も目を閉じた。








「よお、アル、おめでとう」

「えっ、何ですか?」

「うまくやったらしいじゃないか」

「・・・・・・・・・・・・・ええと、はい・・・・?」

がっと後ろから腕を回されて、アルは微妙な返事をした。

ハボックの言っている意味がよく判らない。うまくと言えばうまくやったというか、エドとは仲直りをして、今日は一緒に出勤してきたが。

先程はロイにもうまくやったようだなと言われてエドに怪訝な顔をされたのだが、そちらはともかくハボックにはそんなことを言われる理由は無いように思うのだが。

「結婚するんだろう?」

「はあ!?」

「いいのかよまだ18なのにそんな焦って人生決めて!」

祝ってるのか責めてるのか判らない言い方でバシバシと背中を叩いてくるハボックの大声につられるように、周りにいた人たちが寄ってきた。

「やっぱり本当だったんですか!?」

「本当に結婚するのか大尉」

「ちょ・・・待ってください!」

一度に聞かれてアルフォンスは叫ぶようにその場を収めた。

「皆さん誤解されています。ボクには結婚の予定はありません」

結婚したいくらいの人ならいるが、その人とはおおっぴらにどころかどう頑張っても結婚は出来ない。

「そうなのか?でもすごい噂になってるぜ?」

ハボックがそう言うのに、周りに集まった人々がわいわいと口々に言う。

「大尉の口から聞いたって聞いたって聞いたんだが」

「エルリック中佐にお聞きしたら、そうだって仰ったって」

「そんなまさか!」

「じゃあ大尉が電話でプロポーズなさってたっていうのもガセですか?」

「電話で・・・・?何でそんな噂がたったんだろ・・・・・」

「え、マジでガセなんか?」

ハボックに妙に残念そうに言われて、当たり前ですと返しながらアルはため息をついた。

「もしプロポーズするとしても、電話でなんてしませんよ。大事なことなんですから、何があっても会って言います」

そう言うと何やら納得の雰囲気が漂う。それに安堵しながら噂などいつのまにやら適当なことが流れるものとはいえ、結婚なんて噂が兄の耳にでも入ったらと更に安堵しかけて。

(入ったら・・・・?)

何やらいろんなことがすとんと腑に落ちた気がした。ほんの少しでも疑われたくないのだ、と自分が言った言葉も蘇る。

あの電話で、自分は確かに結婚したいと口にした。

(そうか)

もし自分が、結婚したい人がいるんだと言えばエドワードは。

「あの、兄はなんと言っていましたか。ボクが結婚する、と言ってたと?」

「え・・・・いえ、あの・・・」

急に水を向けられた総務課の女性が思い出すように呟く。

「確か、アイツがそう言うならそうなんだろう、と」

「・・・・・・・・・・・・」

バカ兄貴と言う言葉を奥歯に噛み締めてアルはその女性に礼を言うと、改めてその噂を否定した。ビリビリとしたアルの雰囲気に気圧されてか出来ていたアルの周りの輪が解ける。

兄さんはどこに、と考えた頭が自動的に答えを出した。


「兄さん!」

「あ?」

つまらなそうな顔で書類に判を押していたエドワードが顔を上げるのにずかずかと近寄って、大きな机に両手をついた。

「式はいつにする?」

「は?」

「言ったからにはしてくれるよね、結婚」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・待て」

二人は瞬時睨み合った。今朝の和やかさが嘘のように痛々しい沈黙が流れた。

「ボクが言えば、してくれるんでしょう。それならもっと早く言えば良かった」

「何の・・・話をしてる」

「まだ誤魔化すつもり?」

アルは断罪の口調でエドが逃げる道を叩き壊した。


「結婚したい人がいるらしいって、自分のことだとは思わなかったの?」

「・・・・・・オレは・・・・お前が結婚するって言ってたって言われて、アルはそういうところに嘘はつかないだろうと思って」

そう言う表情が戸惑う。瞳の力が弱くなる。予想していたことだとはいえ、本当に他の誰かとの結婚を考えたのだと思うと腹が立った。

「それでボクが言ったんならそうなんだろうって言ったんだ?そんな噂をデマだと笑うこともしないで?」

「・・・・・・・・・・・でも、お前、結婚とかしたいだろ」

「・・・・・・・・・・は?」

「昔から彼女欲しいって口癖だったじゃないか。そういう当たり前の事を当たり前にしたい方だろ、アルは。結婚したって話聞いたら羨ましそうにするし、子供だって好きだし、そしたら、別にオレは・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・ボクが誰かと結婚したいって言ったら、させてくれるんだ、兄さんは」

「だって、オレ相手じゃ無理じゃないか」

当たり前のように言ったエドワードにアルはぐっと奥歯を噛み締めた。そうでなければ泣いてしまいそうだった。

ひどい気分だった。絶望にも似ていた。どれほど言葉を重ねても、ちっとも伝わっていなかったのだと思うと、ひたすらに悲しくなった。

アルがエドを見ると彼は、久しぶりに見るようなばつの悪い、どこか不安をにじませる顔つきでこちらを見ていた。

「兄さんは、今、自分が何を言ったか判ってる?」

「・・・・・・・・・・・・・・・アル」

「そういえば、昨日兄さん言ってたよね、兄さんはボクに弱い、泣きつかれるということを聞いてやりたくなるって。そういうことだったんだ」

兄としての愛情が深すぎる人だった、アルはずっとそれに甘えてそれを超えるものを要求し、彼はそれに応えてきたと。

思い知らされてアルは叫びだしたい想いを飲み込んだ。空回りするはずだ。本当にバカみたいに滑稽だった。


「あなたが好きだよ。とても」

「オレだって好きだ」

アルフォンスは飲み込んだ想いをその言葉に全て託して告げた。エドワードもどこか必死に伝えてくる。それに甘えられれば。

「うん。兄さんがそう言ってくれる限りは、あなたの幸せも、気持ちも、全部無視したいぐらいだ」

「そうすればいいじゃないか」

その言葉にもう一度縋りついて。好きだと言って、さっきの言葉を忘れればいい。そうすれば目の前のこの人は、また笑って受け入れてくれるだろう。だが。

「でも、兄さんがボクにくれる気持ちは、ボクが欲しいものじゃない」

エドはゆっくりと瞬きをした。金色の睫毛が白い頬に落ちる様をうつくしいと思った。

「ボクはずっと勘違いをしていた。ボクらはお互い同じ気持ちで好き合ってるんだと思っていた。だけど、今それは違ったんだって判ったよ」

ゆっくりと言葉を重ねていくアルの視界で、兄の手が上がる。待てと言われてアルフォンスは黙った。

「お前のそれは、もしかして別れ話か?」

エドの口から言われると、言葉は重く感じた。そんなことが果たして可能だろうかと思ったが、このまま兄の気持ちを利用し続けることは避けたかった。

「そう取ってもらってもいいよ」

「何故?」

だが、そんなアルの気持ちを他所に、エドはきょとんとした顔で尋ねてきた。

「何故って・・・・他の人間と結婚してもいいっていったのは兄さんじゃないか」

「そりゃそうだけど」

エドはまるで何でもないことを言うように答える。

「お前、誰かと結婚したとして、オレよりそいつのことを好きになるつもりか?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・なんとか言えよ。そんなこと出来るのかって聞いてんだ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや、無理、だと思う、けど」

アルフォンスは何やら妙な言葉を聞いた気がしたが、どうにも思考がついていかずに、首を傾げた。

「あれ?」

「出来もしないことを言うんじゃない」

「・・・・・・・・・・・・・・・いや、そうじゃなくて」

「同じ気持ちで好きだなんて幻想もいいとこだぞ。だけど、お前はオレを好きだろう」

「うん」

「オレもお前を好きだ。それが判ってるのに昨日の今日でどうしてお前はそうなんだろうな。・・・ったく何をそんなに怒ってるのかと思ったら」

ため息をつかれてアルは混乱した。話が妙なところへ転がっている。

「え?」

「なんだよ」

「兄さん、ボクのこと好きなの?」

「今更何を」

「・・・・・愛してる?」

「だから今更だろう」

「兄としてだけじゃなくてだよ!?」

「・・・・・・・・・・・・お前、弟としてだけでオレを好きだの愛してるだの言ってたのか?」

「そんなわけないじゃないか!」

「・・・・そんなわけないんだろう」

言い返されてアルは呆然とエドを見下ろした。何だかよく判らないが、やはり兄は自分と同じ想いで自分を好きらしい。激しくすれ違っている気はするが。

「え、でもじゃあ何でボクを避けてたりしたの?」

「避けてたっていうか結婚前の微妙な時期くらいは遠慮してやろうかと思って」

「しなくていいよ!なにそれどういうつもり!?」

「そしたらお前が構ってくれって泣くから」

「泣いてません!!」

大声を出したらどこかすっきりしてしまった。もしかしなくても兄は。

「じゃあ兄さん、ボクが結婚した後は遠慮しないつもりだったの?」

「遠慮したってどうせまた泣きついてくるだろアルは」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうせね」

(・・・・・・・・・・・・・・・)

この人超越しちゃってるよ、と、今度はアルフォンスがため息をついた。

ひょっとしてやはり誤魔化されているのだろうかという気はしたが、エドの言い分を信じるならば、彼はどこまでもアルの気持ちを疑わない。


少しでも疑われたくないなんて。

その言葉の方が彼に対する疑いだった。


「でも、そうか、結婚しないのかー」

「何でちょっと残念そうなのさ」

「いや、アルの子供だったら可愛いだろうなあと思ったんだけど」

「・・・・・・・・きっと兄さんの子でも可愛いと思うよ」

「当然だろそれは」

・・・・・・・・・・微妙に腹が立つなあと思いながらアルフォンスは息をついた。もう一度、初めからだ。

「だけど、お前が嫌がるだろ、そういうのは」

「うん。ボクは結婚するなら兄さんだと思ってるから」

「・・・・・・・・・・・・」

例え思いがすれ違っても、噛み合わなくても、一生をかけてこの焦がれるような思いをわからせてやるという決意が生まれた。

「子供は諦めて。それと法的には許されなくても、ボクがそうしたいって思ってることだけは覚えてて。他の誰かなんて考えられない。ボクにはあなただけで手一杯なんだって事も」

「・・・・・・・・・・・・・・」

アルを見ていた視線が落ちた。再び戸惑うように落とされる視線。

もしかして、とアルの中に突然閃いた気持ちのままに問うてみれば。

「それとも、ボクと結婚してくれる?兄さん」

かあっと赤くなる白い頬。

「・・・・・・・・・・・」

やはり、とアルフォンスは膝をつきたくなってしまった。

先ほどかららしくない弱さを見せたのは、アルがプロポーズに似た言葉を発した瞬間。

(自信満々なんだか、違うんだか・・・・・)

心の中で呟いたアルは、しかし相好を崩さずにはいられなかった。一生かけて判らせてやるけれど。

(一生かけて、解明してやらなくちゃ)

この人のことを。

アルは行儀悪く大きな机に膝をついて上って、赤い頬にくちびるを寄せた。誓いのキスだよと言ってやるために。








「で?そろそろ彼女に愛想つかされたりしてない?」

「特にそんなことも無いようです」

「そう。残念」

ロイ相手にかかってきた電話の代わりに出た途端の応酬にアルフォンスは笑った。

思えば彼女から最近のいざこざが全て起きているような気がするが、それも相手がエドでなければ起こらないことなのだから、彼女のせいにしてしまっては不憫だろう。何やら不穏な期待をされているのはともかくとして。

「そちらは、タバコを止められましたか?」

「仕事が忙しくて却って増えたわね」

「そうですか、残念ですね」

「本当に残念だわ・・・・・・・・・報復なんて男らしくないわよ」

「目には目を歯には歯を、ですよ。兄の教えの十倍返しは女性なので免除ですが」

ちらりと兄のデスクに眼をやると、彼はこちらこのとなど気にしたこともないように何やら書類を睨んでいる。

「そういえば、ヤキモチでは無かったようです」

「・・・・・そうなの?」

「どうやらそこは疑う余地が無いと思われているようで」

恐らく本気で吸ってないかどうか確かめられたのだろう。アルとしてはヤキモチのひとつやふたつは焼いてほしいのだが。そこはまあ一生をかけてということだ。

受話器の奥はアルの言葉に長い沈黙を返していたが、いい加減返さない訳にもいかないと言った調子で返事が返ってきた。

「・・・・・・・・・・報復出来ないのが心底残念だわ」

「十倍返しで聞けることを楽しみにしていますよ」

「で、本題なんだけど」

「はい、なんでしょう」

アルは今日も笑顔で答えた。
















お疲れ様でした・・・。長ったらしくて申し訳ないです。アルフォンスさんがすごいへたれになって自分でもびっくりです。せっかくの軍部なのに・・・!
兄さんはかっこいいというか変な人になってるし・・・。もしBRAVE好きな人がいてこれで嫌になったらどうすんだ(笑)
ほんとうにそれでいいのかアルというのはまあありますが、このお題「恋かもしれない」なのでいいということで・・・(良くないだろう笑)

06.6.28