教会の鐘の音は、澄み渡った空に、どこまでも響いていくようだった。
かぁん、かぁんと。それは死者を悼む悲しい音色。
丁寧に化粧をされた母の死に顔は昨日と変わらずうつくしく、敷き詰められた花はむしろ彩るようで。
「眠っているみたいね」
幼馴染みが隣で、涙をこらえるようにそっと呟いた。

        > Kreuz

まるで生きているみたいだ。アルフォンスもそう思う。目を覚まして、おはよう、アル。エドはどうしたの?また寝坊?と。
笑うんじゃないかと。
母の葬儀の参列者は彼女の人柄を表してか、多くを数えた。その人たち全てが母の死を悲しみ、そしてアルフォンスとエドワードの肩を叩いたり、髪を撫でたり、慰めの言葉をくれたりした。
アルフォンスはその全てに小さな笑みで答えたが、エドワードは。
「兄さん」
伸ばした前髪が彼の顔を隠す。いつもは毅然と上げた視線を落としたまま、その肩が今日は小さく震えている。
誰の慰めにも答えることなく、兄はただ堪えていた。泣くことを良しとしない、意地っ張りのエドワードから溢れる想いを受け止めたくて、アルフォンスは手を伸ばす。
「兄さん」
そっと体を抱きこんでも、彼は身を硬くしたまま身じろぎもしなかった。それを構わず彼の肩に鼻をうずめて目を閉じる。母の死を悼んでくれた人たちが皆この場所から去ってしまっても。ずっと動けないでいる彼と、同じだけの想いを。
(母さん)
柔らかな亜麻色の髪の。いつも穏やかに微笑んでいた。
アル、エド、と優しく呼ぶ声が好きで。
特製のシチューは絶品で。
あんな風に。
あんな無残に。
殺されていい人ではなかった。
死んでいい人ではなかった。
何よりも穏やかな暮らしを望み、絶えない優しさで自分達を包み込んでくれた。
あの、うつくしいひとは。
じわり、と目尻に涙が浮かんだ。

殺されてしまった。
殺されてしまった。
もう二度と、話すことも、笑ってもらうことも、そのぬくもりを感じることもできないのだ。
(母さん)
かぁん、かぁん、と鐘は鳴り響く。
迷わず、神の御許まで辿り着けるようにと導くように。
ただせめて安らかにと。
祈ることしか出来ない。

「・・・・・・アル」
押し殺すような声で、エドワードが呼んだ。首に回されたアルフォンスの手に指先を添わせて。
「オレは絶対に許さない。母さんを殺した奴らを」
「・・・兄さん」
「・・・許さない。あの馬鹿オヤジも」
アルフォンスは憎しみを押し殺したような声を出しているエドワードをさらに強く抱きしめた。
なんてことだ、と眩暈のような感覚の中で思う。
母を殺した人間達は、彼に深い深い悲しみだけではなく。
こんな押し殺さなくてはいけないような憎しみを、エドワードに与えてしまった。
エドワードはアルフォンスにとって太陽のようなひとだった。何ものにも変えがたい眩さと、うつくしさ。彼が持つどんなマイナス面も、全てプラスに変えてしまうような前向きさ、優しさ、力強さを、兄というだけでなく愛していたのに。
「アル、オレは師匠のところに行こうと思う」
「・・・師匠に・・・」
「体術だけじゃない。錬金術も。考えうる最高の力を身につけて、アイツからアイツのいる世界を奪う。それから母さんを殺した奴らを」
うつむいていたエドワードの視線があがる。後ろから抱きしめるアルフォンスにその瞳の中を伺うことは出来ないけれど。
彼が見据えた青空を。
アルフォンスもまた見据えるということだけは、決めていた。

        

無駄に豪華な屋敷の、さらに見栄を張りたいだけとしか思えない豪華な食堂に、アルフォンスは兄と共にひとりの女性と対峙していた。
「味はいかがでしたか、ホークアイ中尉」
こちらの問いかけに、紅茶のカップを置いた彼女は小さく微笑んだ。その笑顔は、軍人とは思えないほど穏やかでうつくしい。
リザ・ホークアイ。そう名乗った、国軍に身を置く彼女の官位は中尉。二十代前半に見えるその容貌からすれば、昇進は早い方に思える。スマートに纏め上げた髪の色は薄い金。地味なスーツを着てはいるが、かなりの美人でしかも若い。軍部の人間がコンタクトをとってきたというから、どんな人間が来るのかと思っていたのだが。話し方ひとつとっても彼女の有能ぶりは見て取れた。
「とても美味しかったわ」
「それは良かった。珍しい客人にコックも張り切っていましたから」
「是非お礼をお伝えください。本当ならこちらがご招待するつもりでしたのに、すっかりご馳走になってしまいましたね」
彼女の惜しみない賛辞に、すらりとした指先を組んだエドワードが華やかに笑う。彼はゆっくりとした動作でテーブルの上に肘を置くと、まっすぐに彼女を見た。
「それだけの価値が貴方にはあるということですよ」
さらりと言った兄にアルフォンスは舌をまく。男女平等の名の元に女性に愛想を振ることをしない彼だが、やれば様になるのだからさすがと言うべきか、腹が立つと言うべきか。最近になって、やっと着慣れてきたはずのスーツでさえ、嫌味なくらいに似合っていた。

今回の会食は先方からの強い要望で実現された。あまり大げさにしたくないということと、協力要請に他意は無いという意味で、どこか近場のレストランでという話だったのだが、むやみに胆が座ってしまっているエドワードが、話があるなら家に来い。どうせ場所ぐらい調べがついているんだろうと豪胆な返答をしたせいで、こんなことになってしまった。幾ら何でも軍人がほいほいとマフィアの屋敷に出向くわけがないだろうとアルフォンスは思っていたのだが、驚いたことに向こうの胆の座り方もエドワードに負けていなかったらしい。
確かに話があるならそっちが出向いて来いとは言った。だからといって本当に、しかも女ひとりでマフィアの本拠地に乗りこんでくるなど。まったくもってたいした度胸・・・というよりは完全に無茶だ。
そう、リザはひとりでマフィアとして暗躍する自分達に接触をはかってきたのだ。地味な出で立ちと、控えめな化粧。軍の匂いなど微塵も感じさせず、その眼光だけを鋭くして。ホークアイとはよく言ったものだとアルフォンスは内心苦笑する。
そもそも幾ら混迷を極めた時代だとはいえ、国軍とマフィアが共謀するなど有得ない。両者とも内実は似たようなものだとしても所詮は水と油。ふたつの組織は決して混じりあいはしない。それを無理にも混ぜるとなれば、水にも油にもそれなりの意図と覚悟がいる。
意図。それはつまり軍にもまた、何かを狙う人物がいるということだった。
「よろしければお茶のおかわりを如何ですか?」
アルフォンスが問いかけると、彼女は軽く頷いた。
「ではお話のお供にいただきましょうか」
その言葉にエドワードがくすりと笑う。どうやら自分達は彼女のお眼鏡にかなったようだ。・・・と同時に、エドワードの眼鏡にも彼女は叶ったらしい。その機嫌の良さそうな笑い方を見れば判る。
だいたいにおいて頂点に立とうとする人間は、箱庭を作り観察し、外側から手を出して面白がるという、いわば神のような存在になりたがる。だがエドワードはそうではない。いつもどこへでも、彼自身がまず先頭を切って走る。まるで未来を切り開くように。その姿が余りにも眩ゆすぎて、アルフォンスを始め、まわりの人間はそれについていかずにはいられない。望むと望まざるに関わらず彼はいつしか頂点に立ってしまう。そして、例え頂点に立とうともエドワードは傍観者ではない。あくまでも先駆者なのだ。
アルフォンスとしては、どんな抗争でも危険を顧みず乗り込んでいく兄が心配で、正直やめて欲しいとも思うのだが、彼が誰かに止められるはずもない。
だからこそリザの無謀とも取れる行動にシンパシーを覚えたのだろう。まさか彼女の上の人間が、そんな兄の性格を見越したとは考えにくいが、結果としては当たりだ。自分達兄弟を相棒に選んだことも、彼女ひとりを寄越したことも。
「それにしても、貴方の上の人間は、貴方をずいぶん信頼しているようですね」
アルフォンスの言葉を受けて、エドワードが新しい紅茶の給仕を受けながら意地の悪い笑い方をする。
「それとも我々を侮っているのかな?」
アルフォンスは兄の言葉に心の内だけで同意しつつ苦笑した。とんでもなく頭が良いか、洒落にならない位の馬鹿なのか。彼女が傍にいる以上、後者だとは思えないが。何にしても型にはまらない人物であるのは確かなようだ。
「ひとりで来たのは私の一存です。噂はかねがね伺っていましたから、一度お会いしてみたかったのです。・・・伝説の『マリア』に」
彼女の言葉にぴくりとエドワードの眉が動いた。アルフォンスしか気付かないほど静かに。
「実際お会いしていかがですか?」
アルフォンスは多少機嫌を損ねた兄の言葉を補う。彼はそのあだ名をたいそう嫌っているのだ。
「上司には、美人かどうかだけは何があっても確かめて来いと言われましたので、その任務は遂行できそうです」
彼女がはぐらかすように笑う。
『マリア』というのは、最近ついてしまったエドワードの裏世界でのあだ名だった。どうやら『鉄の処女』という拷問具からきたものらしい。
『鉄の処女』は、観音開きに開く鉄製の棺おけのような形をしており、その内側には無数の針が突き出ている。拷問というよりはむしろ処刑具だが、針の位置は上手く急所を外しているので、即死するようなことは無いらしい。とはいえ即死できない分、恐ろしさは倍増し、鉄の処女を前にした罪人は、泣いて許しを乞うと言う。そんな恐ろしげな内側に反して、外側の意匠が聖母マリアや少女の姿をかたどっている為にその名で呼ばれる。

こんな裏の世界でもそれなりの秩序や均衡というものがあり、組織同士の力具合や手の組み方などの決まりを無視すれば、特に睨まれる要因になる。けれどアルフォンス達にとってみればそんなものは知ったことではないし、そんなものを無視してもやっていけるだけの自信と力がある。実際に、抗争相手はことごとく殲滅してきたので、多分その辺りから噂が流れたのだ。曰く「最近、見目のいい奴があちこちのシマを荒らしているらしい」と。
例えば彼の右腕についた機械鎧。あるいはまるで魔法のような錬金術。女と見紛うばかりの線の細い美貌。そんなある意味夢幻のような外見と共に、抗争の際、自ら真っ先に乗りこんでいく潔さと、鮮やかな体術からくる途方も無い強さ。父であった前主が死んで以来、没落を辿るだろうといわれた家を誰もが噂するような組織に立て直したそのカリスマ性や、彼の通った後には塵も残らないような無慈悲ぶり。そんなものが一纏めになって噂になり、その噂がさらに噂を呼んだようだった。
闇の世界に鋼鉄の乙女が降臨し、その姿を見たものはその手に抱かれ天に召される。・・・そんな趣味の悪い噂を、エドワードが気に入るわけもない。
「マリアと・・・呼ばれる訳が判った気がします。職業柄、輩と相対することも多いのだけれど、貴方達は少し・・・違うのね」
突如彼女の口調が砕けたのにアルフォンスは驚いた。たいした話をした訳でもない。だが、彼女は。
「貴方たちは信頼に値すると私は思います。さあ仕事の話をしましょう」
小さく笑って、信頼などと。
「いいんですか?信頼などしても。同じですよオレたちだって。何も変わらない。ただのマフィアだ」
多少の自嘲の色を混ぜてエドワードが言う。真摯な言葉には、真摯な態度でしか返せない兄だ。違うと言うのならば、それが違うのだろうか。
「貴方達には目指すものがある。そして私達にも目指すものがある。その方法が正反対を向いているとはいえ、自らの信じる道を進むという意味では同士です。・・・違うかしら?」
ただ愉しみに耽るのではなく、ただ権威に溺れるでもなく。
「違わないと思います」
アルフォンスは答えて兄を見る。兄の目がほんの少し和んだ。
「確かに違わない」
そして次の瞬間には強い光を取り戻して、向かう女性の視線を捕らえた。
「・・・話を聞こう」


「薔薇十字団を知っているわね?」
「薔薇十字団?」
思わず聞き返したのは、その団体がまさに母を殺した団体だったからだ。確実にその場面を見たわけではないが、その場に残ったその独特の錬成陣はかつて。
「知らないわけが無い。秘密結社と言えど民衆がこれほど熱狂していればな」

クリスチャン・ローゼンクロイツ。彼がその創始者だと言われる薔薇十字団は、東方の秘教的知識と崇高な理想で知識人たちをまず虜にし、その後宗教戦争からくる思想的混迷を極めた時代の民衆の心までもをさらった。だが実態は錬金術という『秘術』をおもちゃにして信者を増やし、キリストに代わろうとする者たちの集まり。
秘密結社と言いながら本が出版されたり、思想や動きが漏れ聞こえてくるのがいい例だった。故意の噂を流し、(噂は総じて流れるほどに膨らむものだ)、その是とも非とも知れぬ噂に民衆が熱狂し支持するのを期待しているのが見て取れる。
「そう。先日パリ市内のいたるところに張り紙が貼られたわ。署名は薔薇十字団長老会議長。理想とその理想を携えた同士に会合へ出るよう呼びかけたものだったのだけれど、真の目的がそれでないことは明白ね」
「そりゃ会合の度にそんな手段を取られたんじゃ、結社を潰せって言ってるようなもんだ」
エドワードは苦笑した。アルフォンスも頷く。
「つまり、パリにも進出したぞ、という知らせですよね」
「私達もそう見ているわ。ドイツだけじゃない。影響力は日を追うごとに大きくなっているの。正直捨て置けないところまでね。だけど・・・」
「軍が表立って秘密結社と相対するわけにはいかない、ですか」
「そうでなくても、元々国に対する民衆の反感は深い。敵対すれば民衆がどちらを支持するかは目に見えてる」
兄弟が揃って口を開くと、リザは冷静そうな口元に笑みを刷いた。
「話が早くて助かるわ」
「大方上の奴らがそんなことお構いもなしに圧制を敷こうとしてるんだろう?上から力でねじ伏せることしか知らない連中は、下から突き上げられた時の恐ろしさも知らない」
完全に押しつぶしてしまう気ならば話は別だが。
「ファーマ・フラテルニタティスが出版されて以降、軍内部ですら、薔薇十字団に傾倒する者が増えてきた。それと同時に・・・」
「軍内部での暗殺でも増えた?」
後を引き受けたエドワードがにやりと笑う。リザはその質問に沈黙で答えた。
「は、アイツのやりそうなことだ」
「だね」
つまらなさそうに笑うエドに、アルフォンスも呆れて頷く。それをリザが多少の驚きを持って見る。
「貴方達、薔薇十字団の・・・?」
「オレたちを選んだあんたたちは幸運だぜ?」
その視線に向けてエドが言い放つ。
ファーマ・フラテルニタティスの作者だと言われるヴァレンティン・アンドレーエ。彼は。
「個人的に知り合いでね。ま、向こうは忘れたいんだろうけど」
「大きな借りもあることだし、ね」
そう言いあった兄弟が笑うのにあわせて、彼女の口元もはっきりと笑みを刻んだ。
「話が早くて、本当に助かるわ」

        

面白い人だったねと言うと、返事ともつかないうめき声がベッドから返って来て、アルフォンスは微笑んだ。
「眠そうだね?」
「んー・・・」
「昨日遅かったんでしょ。いいよ、寝ても」
彼にしてみればこの時間などまだまだ宵の口のはずだが、昨夜は読書の為にほとんど眠らなかったらしく、さすがに辛そうにしている。
「・・・風呂・・・」
アルフォンスは床に膝を落として、兄の眠そうな目に頬を寄せる。
「入りたいの?じゃあ少しだけ眠りなよ。後で起こしてあげるから」
その目元でそっと囁くと、エドワードがひどく幸せそうに笑った。
「おやすみ、兄さん」
自分にしか見せることのないその柔らかな笑みを見る度に、アルフォンスもまたひどく幸せな気分になる。
いまだ胸の奥に残る鐘の音。死者の旅立ちを告げるその音が耳の奥で鳴り響く。あの日のエドワードの苦しみも痛みも忘れずにいるから。
それは途方も無い絶望。
何の変哲も無い朝、街、学校。昨日まで続いてきたことが、当然今日も続いて、そして明日に繋がっていくのだと。意味も無くそう信じていた。
あの日まで。

(かあ、さん?)

押し殺したような彼の声が、耳に。
残って離れない。
「・・・兄さん」
小さく寝息を立てて、安心したような顔で目を閉じているエドワードの、どこか子供のような寝顔を見ていると、ただ穏やかに過ぎていったあの毎日を思い出すのだ。
ぎらぎらと刺すような視線で、誰よりも早く駆け抜ける。敵に向ける恐ろしいほど凍てついた冷笑もひたすらに苛烈でうつくしいと思うのだが、こんな日の目を見ない世界で、憎しみと絶望を見たまま生きていくのは彼には似合わない。
そんな彼をこんな闇の世界に引きずり込むきっかけになった人間。ヴァレンティン・アンドレーエ。
「許せないね」
アルフォンスの口元に冷たい笑みがのぼる。それもまた、兄には見せることのない笑顔ではあったけれど。


顔見せ程度の会食のつもりであったが、リザとの対談は長時間に渡った。
軍部の誘いは予想外ではあったが、大きなチャンスでもある。自分達の目的はアンドレーエの失墜だ。それが叶う上に軍に恩を売れるのだから願っても無い。まさか利用する気で来るのではなく、本気で手を組みに来るとは思っていなかったが。
互いを信頼すると決めた以上、見せられるカードは見せたし、見せられたように思う。手の内を晒すというところまでいかないのは、所詮水と油だからだ。馴れ合う気はないのだから構わない。少なくとも向こうの方が大きなリスクは背負っている。リザに、貴方の上の人間はこんな勝手をして大丈夫なのかと問うてみれば、ご心配無くと笑って返された。リスクどころか、利用してのし上がるつもりかとアルフォンスは直感する。彼らにとってもまた、裏を返してみればこれは大きなチャンスなのだろうから。

薔薇十字団の中心的存在と目されるヴァレンティン・アンドレーエは、父ホーエンハイムの旧友であり、またかつてこの家に兄弟が住んでいた頃の家庭教師でもあった。主に錬金術の。錬金術の初歩の初歩を兄弟は父の膨大な蔵書から学び、それに続く初歩をアンドレーエから習ったのだった。
父と彼との間に、どんな友情があったのか、どんな確執が生じたのかは判らないし、知りたくも無い。だがアンドレーエは父と袂を別った時に、とんでもない置き土産を兄弟の部屋に残していった。
巧妙に仕掛けられた罠。人を傷つけることを目的とした練成陣。その結果、幼かったエドワードは右腕を無くした。というよりは、エドワードだったからこそ右腕だけで済んだと言える。
この惨劇にひどく心を痛めた母トリシャは、マフィアの影など見えない小さく平和な街へ兄弟を連れて逃れた。家を離れたのは元々はエドワードの腕の治療の為であったが、幼い子供までを犠牲にするような血塗られた世界を厭ったせいでもある。
母はマフィアのボスの妻とは思えないほど優しく、穏やかな人柄だった。屋敷にいれば使用人が全てやっていたような家事をし、他の人が着るような普通の服を着、隣人との世間話に花を咲かせた。
そしてエドワードの治療が終った後も、そこで優しい人たちに囲まれて、のびのびと兄弟を育て続けることを選んだ。兄弟もそこでの暮らしにすぐに馴染み、普通の学校に行き、いたずらをしては怒られ、テストで良い点を取って誉められ、近所の子供達と笑いあった。
そんな普通の毎日は当たり前に続いていくはずだった。・・・あの日までは。


あの日。ふたりはいつもの通り学校から一緒に帰ってきた。
腹減った、お腹すいたと騒ぎながら家のドアを開ければ、そこにはいつもならば母の作る夕飯の匂いがしてくるはずだった。だがその日は。
まず気付いたのはドアを先に開けたエドワードだった。そんな彼にぶつかって文句を言いかけたアルフォンスも中の様子がおかしいことに気付く。兄の肩越しに見えた、床に広がる赤茶けた色、白い、腕。
かあさんと呟いたのはアルフォンスが先だったと思う。
ふらふらと、兄が動いた。それにつられるようにアルフォンスも家の中に入る。木の床の上にかすれて残った、どこかで見覚えのある練成陣。その上に仰向けになった母。その瞳は閉じられ、口から溢れた血がそのうつくしい顔を汚し、その体からは。・・・引きちぎられたように、胸部が消えていた。
アルフォンスの膝が勝手に床に落ちた。動けなかった。母が倒れていた床に残された独特の、忘れもしない練成陣。それはかつて、エドワードが倒れこんでいた兄弟の部屋にもあった。エドワードはそれでもがちがちと震える生身の手をのばして母の頬に触れた。触れた瞬間、驚いたように手が引き戻される。
彼女の死を理解した兄の叫びは悲痛だった。音になったのは。押し殺されたような声だけだったけれど。
いつまで経っても訪れない兄弟に業を煮やした、肉屋の夫人であり兄弟の体術の師匠でもあるイズミが彼らの家に訪れるまで、ふたりはどうすることもできずにそこに座り込んでいた。

それは自分たちがまだ十六と十五歳だった冬の話。
母を失った自分達は、母を直接的に死に追いやったアンドレーエと、間接的に助長した父への怒りを胸に、母を守れなかった自分達を高める為にイズミの元で鍛錬を積んだ。あるいは父が死んだというのも、奴の仕業なのかもしれなかったが、そもそも父がアンドレーエの首の根を捕まえておけばこんなことにはならなかったのにと思うばかりだった。
アンドレーエにしても、父が憎いなら父だけを狙っていれば。
だがアンドレーエはそれでは飽き足らず、エドを、母を、兄弟を執拗なまでに狙ってきた。その執拗さと、同時に著者不明で出版していた本の著者を三冊目にして公表したあざとさ。世間に名前を売るチャンスを我慢できなかったのに違いない。アルフォンスは彼ほど判りやすい悪役を見たことが無かった。
アンドレーエが薔薇十字団なる組織の中核として動いていることを知り、先に父親を失墜させてボスに成り代わることも考えた。だが母の死から四年。計画は予想外の展開から始まった。
突然の来訪者。告げられた父の死。組織のボスにと迎えられて、それはあくまでも飾りとしての長に過ぎないのだと理解していたが、アンドレーエに近付くには渡りに船と、この闇の世界へ身を沈めたのだ。
元よりエドワードは王者の気質を備えている。何もかも隠して、のどかな下町に育ったとは言え、ふたりとも近隣に知られる程度には優秀だったし、先代の息子なのだから跡取りとしては初めから問題が無い。まるで予定調和のように、エドワードは名前だけの長から実を伴った長として組織に君臨し、闇世界に確実に名前を売り始めた。そして。

        

「アルフォンス様」
「ああ、フォッカー。まだ戻ってなかったんだ」
侍従頭であるところの彼は、執事としての役目もまじめにこなしてくれる。何があってあえてマフィアの家などに仕えているのかは追及していないが、誰にでも言いたくないことのひとつやふたつはある。
「いえ、今下がらせて頂くところでございます」
「そう。ご苦労様。これから当分の間は少し騒がしくなると思うけど、いつも通り頼むよ。兄さんはあれで結構神経質だから」
「承知してございます。明朝はいつも通りと伺っておりますが」
「うん。いつも通り。・・・ああ、だけど兄さんはボクが起こしに行くから、朝食の用意が出来たら教えてくれる?」
「かしこまりました」
頭を下げた彼に頷いてアルフォンスは去る。自分が動かなければ使用人である彼は一歩も動けない。使用人など使わない生活を長く続けていたため、あくまでも隔たりのある関係に初めは慣れずにいたが、もう違和感も無い。それは銃の感触と同じに。
そう考えて多少自嘲の笑みを浮かべたアルフォンスは、兄の部屋へと再び向かう。風呂に入ると言っていたからには起こさないと、明日鉄拳が下ってしまう。
だがドアを開けるとそこには。
(いないや)
寝乱れたシーツの上にはスーツが脱ぎ散らかしてある。しわになると何度言ってもあの兄はこの扱いを止めない。使用人のいない生活が長かったように、スーツも着慣れない。この屋敷に入るまで、動きやすい服装を好んでしていたエドワードには、どんなに上等のスーツでも鎖のようにしか思えないらしい。
「兄さん、起きてたの?」
「おー」
バスルームをノックすると案外しっかりした答えが返ってくる。どうやら寝不足は解消されたようだ。
ふ、と息をついてアルフォンスはアンティークの椅子に座る。デスクの上には読みかけの本。だだっ広い、やたらに豪華な調度品の置かれたこの家に住むことにも慣れた。兄と部屋が離れてしまうのは、慣れないというより不満ではあるが。

守られているばかりを良しとしないどころか、守ろうと身を張る兄。本当ならば片時も傍から離したくないというのがアルフォンスの正直なところだ。兄が右腕を失って、苦痛に顔を歪めていた記憶もまた、アルフォンスには悪夢のように残っている。あの時はただ幼く、兄の為に何もしてやれなかったが。
今ならば。いや、今だからこそ。

「どうした?」
バスルームから出てきたエドワードが背後から声をかけてきた。金色の髪が濡れて濃い色に光るのを見て、アルフォンスは微笑んだ。
「別に何も?」
その答えにエドワードは少し不満そうな顔をして、タオルを肩にかけたままソファの方に座ってしまう。タオル一枚を裸の肩にかけて、エドワードはミネラルウォーターのボトルを口に含む。
ひとしきり飲んだ後は、片足をソファに行儀悪く上げて、何かしら考え込んでしまったようだった。エドワードが考え事をしている時はすぐに判る。天才にありがちな並大抵ではない集中力は、簡単に彼を思考の海に没頭させる。
金色の目が。
深い闇をたたえるように、見ているのだけれど見ていない。そんな風になるから。
アルフォンスは椅子から立ち上がると、彼の隣に腰掛けた。エドワードはいつも簡単に否定するが、アルフォンスはごく単純に彼をうつくしいと思う。兄だからとか、想い人だからとかではなく。
首から左肩にかけてのなだらかな線。エドワードのフォルムは、男にしては柔らかい。小柄な体、小作りな顔。体は鍛えられているが、痩せているせいだろうか。少年の匂いを残したまま、むしろ機械鎧が痛々しいほどに。
だがその痛々しささえ。
「綺麗だ」
彼に似合ってしまっている。重々しく、何もかもを拒否するように冷たく光る機械の腕は、だからこそ彼の性質を人の領域から。
「ボクのマリア」
聖なるものに押し上げる。

「テメェ、マジでブッ倒すぞコラ」
「なんだ、聞こえてたの?」
ドスを利かせた声も気にとめず、アルフォンスはエドワードに笑ってみせる。そのついでに濡れた髪を一筋とって口づけると、裏拳になって返ってきた。
「せめて手加減しようよ」
顔面に入るのをなんとか阻止してさらににこりと笑うと、けっとエドワードが悪態をついた。
「するか。お前こそ何気に入ってんだよ。その訳の判らん呼び方。ホント真剣に鳥肌立つから止めろ。っていうか止めて下さい、オネガイシマス」
「鳥肌はいつまでも裸でいるからじゃないの?ずっとそんな格好でいたら誘ってるんだと思って襲うよ」
マリアとか言いつつ襲うんじゃねぇ。と言い返すエドワードの肩をタオルごと抱き寄せる。上げられた片足が邪魔なので、後ろから。
「冷えない内に着替えないと。ねぇ上は?」
「タンスの中」
「下出しておいてどうして一緒に出さないんだろこの人。それに兄さんは無宗教でしょ」
「無宗教でもマリアが処女懐妊した話ぐらい誰でも知ってる」
そう文句を言いながらもされるがままに抱き寄せられているエドワードにくすりと笑って囁く。
「兄さんが綺麗なのは、マリアが処女懐妊した話と同じくらい周知の事実だと思うけどなぁ」
しっとりした髪を、同じく冷たい耳にかけてやる。あまりの冷たさに、そこにもくちびるを落とすと、エドワードがぽつりと言った。
「綺麗なのはアルだ」
「・・・言われることの恥ずかしさをボクに思い知らせてやろうっていう魂胆?」
「違う。アルは綺麗だよ」
斜め下から見上げられて、アルフォンスは思わず言葉に詰まる。
腕の中で微笑むエドワードの薄いくちびるの艶やかさ、日の光を集めたような金色の光彩、なだらかな頬の線、こんなに綺麗な人間にそんなことを言われていいものか。アルフォンスにも顔立ちの整った母に似た自分が、それなりに見えるという自覚はあるが。
「髪も目も。綺麗な色だ。艶を消した金色で」
そう言ったエドワードの指先が目の先に伸びてくる。
「頬の線とか顎の線とか。オレお前のおでこも好きだぞ。お前は短い髪が似合うな」
言葉を重ねる度に自分を撫でていく指先を、アルフォンスは掴んだ。
「ねえ、もしかしてほんとに誘ってる?」
くすくすとエドエドワードは笑う。
「別に?」
軽くそらして見せたエドワードの目元が和んだ。その言い方が先ほどアルフォンスが答えた返事の仕返しだと判って苦笑する。
「そう?じゃあボクが誘おうかな。ね、綺麗なんでしょ?ボクの顔」
思いきり至近距離で兄の顔を覗き込む。考えてみれば好きな人に綺麗だと言ってもらえるのはかなり気分がいい。自分が虜になっているだけ、この人を虜にしたいと。思ってしまうから恋。
だが絡めとろうとしても、簡単にはさせてくれない。エドワードが鮮やかに笑う。
「できるものならやってみれば?」
「言ってくれるね」
アルフォンスは言いながら掴んだ指先にくちづける。どれだけ、アルフォンスがエドワードを見ているか。どれだけ大事か、夢中なのか。
知らない兄でもあるまいに。
ふ、と笑みを漏らすアルフォンスももちろん知っている。兄がどれほど自分を求めているか。そのくせそんなそぶりを露ほども見せず、片足を上げた行儀の悪い姿勢で座ったまま微笑を崩さないエドワードの指先に、そのまま舌を這わせた。
「天国を見せてあげる」
奪うのは、喰うのは、確かにアルフォンスなのに、彼の轟然とした態度は決して崩れない。気を抜けば、絡めとられるのは自分だ。
そうはさせない。
目を伏せて、エドワードの中指を舌先で執拗に舐めていると、前髪に触れる息が吐息に変わってくる。アルフォンスは小さく笑って顔を上げた。
「おまえの思考は・・・そこから離れられねぇのか・・・ッ」
上がり始めた息の合間に言われた文句には答えずにくちづける。
「・・・ふ」
強く舌を絡めて、その細い体を抱き取る。
「・・ん・・・・っん」
口内を舐めとる度にエドワードの口から息が漏れ、それごとに力も抜けてくる。兄の舌はいつもひどく熱く、ひどく甘い。それをいつまでも味わっていたいが、それだけで満足しない熱い息がアルフォンスを襲う。
「んぅ・・・あ」
一瞬離したくちびるに、どうしてとばかりの声を漏らされて、アルフォンスは薄く笑う。
「兄さんは、キスが好きだね」
くちびるを真っ赤に染めて荒い息を吐く兄が、アルフォンスの言葉に視線で抗議して来る。そんな風に潤んだ目で見ても煽るだけだというのに、何度そう言っても彼はお前が勝手に煽られてるだけだと、意地の悪いことを言う。
「アル・・・」
そんな腰から溶けそうな声で人の名前を呼ぶくせに。
ぺろりとそのくちびるを舐めて、もう一度兄のくちびるを塞いだ。
今度は甘いだけではなく容赦の無いキスを。
何度も。

        

紙コップのコーヒーをトレイに乗せてエドワードの元へ戻ろうとして、アルフォンスはどこからか漂ってくる不穏な空気に気付いた。
リザとの会合はその後幾度かを数え、計画としては順調に進んでいる。密談のほとんどはエルリック家で行われていたが、指定されて外に出ることもあった。

リザに指定された、街角にあるセルフサービスのカフェは、昼時ということもあってかそれなりの賑わいを見せている。何とはなしに騒然とした雰囲気は数年前までは普通の学生でしかなかったアルフォンスにも馴染みのものだ。大きな街である分やはり客層は多様で、だからこそ他人に頓着しないような客ばかりだから、不穏と言っても、特に何がと言うわけではない。ありがちなカフェに、普通の人々。男も女も子供もいる。怪しい人間もいるにはいるが、正直に言えば壁際の席に座ってコーヒーを待っているエドワードが一番怪しい。
粗末なテーブルを前にして椅子にふんぞり返っているだけなのだが、風体が見るからに妙だ。若いくせに異常に落ち着き払った気配、ダークスーツにサングラスといういかにも怪しげな出で立ち。その割に小柄で綺麗な曲線を描く頬。
ちぐはぐな気もするのに、彼が彼であるというだけで、まとまってしまっている。そこに自分が加わることで、どんな風に見えるのか多少不安な気もしないではなかったが、昔からエドワードは無駄に目立つ人間だったし、少なくともアルフォンスが感じる『不穏さ』の元がエドワードであるはずがない。
アルフォンスは油断無く辺りを見回して、不穏な空気の元を探す。
そこに見咎めた、黒髪の男。
アルフォンスは目を眇める。直感が早く兄の下に戻れと告げている。それに従って一歩目を踏み出したところで、黒髪の男が動いた。年は二十四、五くらいか。判りやすく優男という感じの姿をしている。エドワードの向かいに座って何かを話しかけるのを、エドワードが鬱陶しそうに見た。
アルフォンスは急いでいた足を思わずぴたりと止める。ナンパなら確実に阻止しなければと思うのだが、どこか。
どうということの無い格好をしているのだが妙に隙が無い。堅気ではないようだが、マフィアともまた少し違う。その男の持つ空気をアルフォンスはどこかで知っていた。あれは。
「お前、何者だ」
やがてエドワードの威嚇を混ぜた静かな声がアルフォンスの耳にも届いた。アルフォンスは再び踏み出した。水のグラスを掴もうとした兄の手が男によって止められる。続いてグラスが転がる音。アルフォンスはそれがテーブルから落ちる寸前に受け止めて、自らの持つトレイに載せた。
男を睨んでいたエドワードが、弟に気付いて見上げてくるのに微笑みかけてから、アルフォンスはゆっくりと言った。
「兄の手を離してもらえませんか、ロイ・マスタングさん」


ロイ・マスタング。国軍大佐及びリザ・ホークアイの直属の上司。水と油を混ぜてみようとした人物。
アルフォンスは目の前でにこやかに笑う男を観察する。
「いや、彼女が『マリア』は美人な上に頭もいいと絶賛していたものだからね。ちょっと興味が湧いたのさ」
兄弟の向かい側に座って、あっさりとそんな風に言ってのけたこの男の隙の無い雰囲気は、リザと共通するものだったのだ。リザとの協定を結んで以降、この男の名前だけは聞いていたのだが。
「彼女に聞いて見てみれば確かに予想以上の美人だったのはいいが、・・・男だとは聞いていなかったな」
そうに言った彼にエドワードが胡乱げな視線を向ける。
「あんたは美人なら男でも手を握る趣味があるのか」
ロイは軽く笑って見せた。
「女性の方が私は好きだがね」
決して否定しなかったロイにエドワードは椅子ごと音を立ててテーブルから離れた。思わずアルフォンスも兄を庇うように動いてしまう。
「・・・いや、そこまで引かなくても、私にそんな趣味はない」
「ほんとかよ」
「怪しいよ、兄さん。気を抜かないで」
待てと言うように両手を広げた彼に、身も蓋もないことを言いつつ兄弟はさらに警戒の表情を強める。
「いや、怪しくなんかないぞ。本当に私は仕事の話をしにきたのだ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「仕事の話なら、鷹の目の女史とさせてもらってる」
エドワードが疑わしそうな態度を変えないままで答えるとロイは大きく頷いた。
「ああ。それはもちろん判っているがね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「いや、君達そんな悪い大人を見るような目で見るのは止めてくれないか」
兄弟の視線に負けてロイが脱力する。エドワードが聞く耳を持たないというように悪態をついた。
「悪い大人代表みたいな顔しやがって、誰が信じられるか」
「兄さん、ボクら彼女を買いかぶりすぎたのかな」
「いや、あの人は信用できるだろ。彼女が下についてるって言うくらいだから、よほど傑出した人物だろうってこっちが期待しすぎた」
「そうだよね。ボクらに接触してくるところからして、そもそも変わってるって話はしてたしね」
君達なぁ・・・と頭を抱えそうにロイが溜め息をついた。
「君達こそ子供でもあるまいし、もう少しビジネスライクにだな・・・」
「初対面の人間の手をいきなり握ることがビジネスですか?」
アルフォンスがずばりと突っこんだ。その言葉に本当に言葉を失ってしまったこの男がロイ・マスタングであることに違いは無いのだろうが、どうやら想像していた人物像からはかけ離れた人物のようだった。
これで大佐だって?アルフォンスはさっきから何度も思っていたことを再び思う。大佐にしては軽すぎる。怪しすぎる。・・・若すぎる。
若く見えるのだとしても三十は超えないだろう。リザにも驚いたものだが、彼の昇進は早すぎる。コネがあったとしてもまだ若い。それは。
あんた怪しすぎるんだよ。ともっともな追い討ちをかけるエドワードと目が合う。二十代の大佐。それは、目の前の男が途方もなく優秀だということを表している。
軍の階級といえば、功績を上げて上がるということももちろんあるが、それよりも、やはりそれなりの処世術と平穏な任務にあると言えよう。誰に取り入るか、揉め事を起こさずに任務をまっとうできるか。士官学校を出たエリート官僚ならば、それが何よりも重要で、そこさえ押さえておけば、年を重ねればある程度の昇進は約束されていると言っていい。
そんな『上層部予備軍』は軍には幾らでもいる。若い人間が入る余地など無いのだ。多少の功績を上げたところで「若すぎる」という彼らにとってはもっともな理由で昇進を妨げられるのがオチ。適当な褒章でごまかされてしまう。
それなのに、二十代の若さで大佐の地位まで昇り詰めた彼は。つまり、昇進させざるを得ないほどの功績を上げた、ということで。
「だから私は決して怪しくなんか・・・そう、もうすぐホークアイも来る」
焦ったような言い方も、態度も、その優男ぶりでさえ。
作り上げられた人物像ではないのかと思われるのだ。その意味で怪しいと。エドワードは二重に意味を重ねて言っている。アルフォンスも正確にそれを理解していた。
少し考えれば誰にでもわかることだと思うが、軍内部では有効な手立てなのだろうか。軍人のくせに、マフィアに協力要請をかけてきた『変わり者』。一筋縄ではいかない。ずっとリザとだけで調整をつけてきた作戦にわざわざ姿を現したのも。
エドワードが冷めかけたコーヒーを手に取った。
水と油を混ぜた意図。今自分たちの前に、あえて姿を現した意図。どんな理由があるのかは知らないが、とりあえずは騙されたふりをするのが得策か。
「それなら女史が来るまで話は待ってもらいましょう。ボクらは彼女と契約をしている」
「まずー」
同じ結論に辿り着いたのか、エドワードは彼を無視する方向に決めたようだ。知らぬ顔ですすり上げたコーヒーに眉をしかめた。
「え、そんなに?」
「すっげ不味いぞ」
差し出された紙コップを受け取って口をつける。
「ほんとだ。いつも美味しいのを淹れてもらってるものね?慣れって怖いよね」
「だな」
話は決まったとばかりにロイをのけ者にして話をしだす兄弟に、彼は反撃とばかり、ぼそりと突っ込んだ。
「・・・君ら同じカップから飲まなくても、それぞれ買ってきたんじゃないのかね」
「あ、良かったらそれどうぞ。仮にも彼女の上司に何も出さないというのは失礼ですからね」
「冷めたコーヒーを勧めるのも失礼だと思うがね。しかも不味いんだろうが。そもそも失礼といえば既に散々失礼だぞ、君達の言動は」
「そういうことはご自分の行動を省みてから仰って下さい」
ものともせずさらりと交わしたアルフォンスに、文句をつけていた男がとたんに黙り込んだ。
「君、あー・・・アルフォンスと言ったか」
どうする兄さん、口直しに他のもの買ってこようか?と甲斐甲斐しく世話を焼く弟に、ロイが冷めたコーヒーを手にして言った。
「はい。何か?」
「君はホークアイと気が合うだろう」
「・・・ボク達ふたりとも女史には良くしてもらってますよ。ね、兄さん」
兄にのみ微笑みかけた弟に、いや、でもお前らは気が合ってると思うぞ。と兄の方も弟のみに話しかける。ロイの相手はアルフォンスと、いつのまにか兄弟の間で決定したらしい決まりごとを嫌味たらしく徹底する兄弟に、げんなりしたロイは結局黙り込んで不味いコーヒーをすすった。
「女史が来たら移動しようぜ。彼女にこんな不味いコーヒー飲ませるわけにはいかねぇよ」
「うん。でもここを指定したの、彼女なんだよ。伝言だったから正確なところは分からないけど」
「何かあるってか」
「さあ。他の誰かが噛んでないとも限らないしね」
「ああ。ヘンタイとかな」
「そう。上層部とかね」
「・・・・・・」
若いくせに上等のスーツを着込んで、二人だけで和気あいあいと話している兄弟と、もはやいじめに近い兄弟達の会話を黙って聞いている男との取り合わせはさすがに奇妙に映るのか、他の客達が妙な顔つきで脇を通るのにもどこか遠巻きにしていく中。
「大・・・男爵」
「・・・だ」
「だ」
寄ってきた一人の男が、ロイに呼びかけたのに、兄弟は目を丸くする。男爵と声にならない声を上げて目の前の男を見たふたりに構わず、ロイは目の細い男の話を聞いている。
「そうか。いいだろう」
口の端を上げてロイが笑った時、エドワードがふと店名のペイントされたガラス窓に目をやった。続いてアルフォンスも。
外の騒々しい気配が遠く離れたこの位置からでも分かった。

「エルリック兄弟。どうやら待ちかねていた客が来たようだぞ」
そこに見えるのはもちろんリザではない。
「テメェ、謀りやがったな」
ガシャーンと派手にガラス窓が割れて、店内が騒然となる。うろたえることもなくアルフォンスが横のテーブルを蹴倒してとりあえずのバリケードを作る。
「まさか。言っただろう。仕事の話だと。聞かなかったのは君達の方だ」
悠然と言って見せたロイに舌打ちをして、エドワードが周りに目をやる。次々と破られる窓。逃げ出す客。それを構わずに乗り込んでくるのは。
「ふぅん。見たことある顔だね」
「ああ。ダグラスの家でな」
半年ほど前、殲滅に追い込んだはずのダグラス家と軍部との関わりなど、兄弟は預かり知らぬところだった。
家としては完全に瓦解しているはずのダグラスの残党が、別の家にやとわれていることは考えられるが。
「アレは薔薇十字に繋がっているぞ」
にやりと笑ったままロイは続ける。
「この店も」
聞き捨てならない台詞に兄弟が驚く間もなく、他の客と違い逃げるそぶりも見せない怪しい四人組に、襲撃者達は目に警戒の色をにじませて囲みをかけてきた。
手にした銃を突きつけてくるのを見返す。この程度の人数なら形勢逆転も難しくは無いだろうが、ロイの意図を諮りかねたままでは、勝手に動くこともできない。とりあえず、大方の客達が逃げ延びただろうことは幸いだ。
「おまえ達、見た顔だな」
襲撃者達が兄弟を見咎める。
「そうか?」
エドワードが笑って答える。その態度に襲撃者達の気分が逆なでされたのか、ぴりぴりとした雰囲気が強まる。
「えらく小生意気な態度だが、自分の立場を分かっているのか?」
かちりと男達の手の中の銃が音を立てるのを、エドワードはどうしようかという目で見た。実際銃を突きつけられている以上、こちらの形勢不利は変わらないし、気分のいいものでもない。数瞬の逡巡の後、エドワードはどうも事態の原因と思われる男に直接聞くことに決めたようだった。
「なぁ男爵様?アンタ悠長にしてるけど、守ってくれとか言うんじゃないよな?」
「勝手に喋るな!」
男達はいきり立ったが、問われた方のロイも一切動じない。
「そんなことは頼まないさ。君達も言っていただろう。私には鷹の目がついてると」
そう言って笑みを深くしたロイの台詞を聞いていたかのように、遠くから銃声が響いて、襲撃者のひとりの手首が撃たれた。
「ぐあッ」
一人の男が持っていた銃を落として血を吹き上げる手首を持ち上げる。
その機を逃さずにロイの傍らにいた目の細い男が懐から銃を出してもうひとりの男の手を打つ。ほとんど条件反射的に走り出した兄弟がそれぞれの銃を手にして残りのふたりに狙いをつけた。
「抵抗すると外の仲間がおまえ達も撃つぞ」
テーブルに座ったまま、悠然と男達に告げるロイにエドワードが悪態をつく。
「テメェ。人を勝手に使ってんじゃねぇよ」
使われたというよりは勝手に動いたのだが、あからさまに働きを期待された事態の展開にアルフォンスも溜め息をつく。型にはまらない人物だろうとは思っていたが、実際目の当たりにすると呆れるほどだ。
「はっはっはっ。私も君達に会いたかったし、説明の手間は省けるし、ついでに気になる奴等も捕まえられるしで、一石二鳥だろう」
「全然説明してないだろうが」
「それは彼らがこれからしてくれるはずさ。・・・准尉」
「はい」
やはり懐から取り出した無線でどこかに連絡をとっている彼は准尉らしい。変わり者で無謀な上司を持って、彼には気の毒なことだとアルフォンスは思う。
ばらばらと、やはり軍人だと思われる私服の人間が入ってきて襲撃者達を縛り上げ始めた。
「・・・なるほど。客にも混ぜてたって訳か。大掛かりだな。こんな街中で銃撃戦かましたら上が煩いんじゃないの」
「今回の奴等は悪名高いからね。軍も警察も民衆も善人なら捕まった事を喜ぶはずさ。まあ悲しむ人間がいないとは言わないが」
「大佐」
既に回りの目が無い為か、呼び方を官位に戻した准尉が、その言葉の内容を咎める。
「それでは軍や警察にも悪人がいると認めているようなものですよ」
「本当のことだろう」
悪びれもせずにさらりと言ったロイに兄弟が本気で呆れた。それで気が抜けた。まるでその隙をつくように、背後でうわぁ!と叫び声が上がった。巻き起こった練成の光に気付いて、兄弟は再び攻撃の態勢を取る。襲撃者達のひとりが錬金術で縛めを解いたのだ。突きつけられていた自分の銃を取り戻した男が剣呑な笑いを浮かべて、錬金術に驚いてしりもちをついた軍人を盾にして入り口側から離れた。リザの狙えない位置へ。
「銃をおろせ。おまえ達は善人の方だろう?まさかコイツを見捨てまい」
じりじりと動くその男に向けてエドワードが問う。
「どうするつもりだ。逃げ道はあちら側にしかないぞ。いくら人質をとったところで外に出れば背中は丸空きだ」
「ひとつ?果たしてそうかな」
にやにやと笑う男は自分が逃げ延びることを疑っていない。そういえば『この店』も関係があるんだったかとアルフォンスは考えた。
「・・・そうか、お前。見たことがあると思ったら」
店のカウンターの方へと移動しながら、男は何か思い付いたらしかった。
「前も思ったんだ。こんなところに何でこんなチビがいるんだって。・・・お前」
パンッ!とアルフォンスの隣で乾いた音が響いた。ああ、と思った瞬間には兄の両手が床を打っていた。
「は、わあああぁあ!」
彼の性格をよくあらわした派手なひかりが輝いたかと思うと、凄い勢いで床が割れて、男が背をつけた壁まで伸びていく。
「誰がちっさすぎて記憶にも残らない程のミジンコドチビだー」
その言葉とともにエドワードが男の元へ飛んでいって、まず邪魔な人質を放り投げた。人質だった軍人は、何が起こったのか判らないまま、錬金術で割れた床の上を転がってアルフォンスの足元まで来、エドワードは言ってはならない台詞を口にした襲撃者に激烈な暴力を振るう。
「兄さん兄さん兄さん。そろそろ死ぬからその辺で」
とりあえず転がってきた軍人は放っておいてアルフォンスは兄を止めにかかる。
「錬・・・金術・・・だと・・・」
「テメエに使えてオレに使えんわけがあるか」
「人質の命は・・・惜しく・・・」
「マフィアにンなこと聞いてんじゃねぇ!」
アルフォンスの腕に取り押さえられたままエドワードは一喝した。とはいえ人質は問題なく無事だ。多少打撲だのタンコブだのは出来たかもしれないが。
襲撃者は慌てて寄ってきた准尉に任せ、ずるずると兄を引き戻してくると、ロイが声もなく笑っていた。
「笑ってる場合ですか」
「いや、君達は本当におもしろい」
腹を抱えて笑っている人間に何か反論出来ようはずもなく、周りの軍人が忙しく動き出す中、とりあえず無事に正常な位置を保っている椅子にエドワードを座らせる。
「中尉が気に入るわけだ」
散々笑ったあとにそう言ったロイに目と目を合わせた兄弟は、リザはともかく妙な人間にまで気に入られたものだと思い、とりわけ弟は、これから先々厄介なことになりそうだなと持ち前の勘の良さを発揮していた。

 

2005年まだ六畳さんと一緒に活動していた頃の本Krezuから、独り立ちした時マフィア再録本のMARIAにももちろん入ってるんですが、更にウェブにも再録します。
マフィアは書ける機会があればできるだけ書きたいからさ。
2022.5.9 礼