のわこさんに、お誕生日用に書きますと宣言を受けてうきうき待っていた小説は、なんとサナトリウムその後、でした!
サナトリウムは先年暮れ辺りにのわこさんが連載していらした、とある療養所を舞台にしたパラレル小説です。なので是非ともそちらを先に読まれることをお勧めします。のわこさんのサイトへはこちら






















====== tomorrow never knows







「だいたいさあ。」

 長く伸ばされた蜂蜜色の髪がきらりと光って揺れた。

 色素の薄い琥珀の瞳が見上げてきて、それはそれでなかなか眼福ではある。

 しかし、その美しい顔で紡ぐ言葉は少々酷薄だった。

「あなた、いつまでこんなところで寝ているつもりなの?」 

 ─何でって。

 ハイデリヒははっとして、慌てて体を起こした。

 真っ白な天井、真っ白なシーツ。

 眩しく陽光が差し込む窓を背にして、ベッドの脇に立っているのはアルフォンスだった。

「ア・・・アルフォンス─君?」

 アルフォンスは、さらりと長髪をはらって、口の端を小気味良くくいっと上げた。

 その姿はまぎれもなくアルフォンス・エルリックではあったが、果たしてこんな風体だったか。

 自分が何故ここにこうしているのかも分からないくせに、ハイデリヒは、しきりにそのことを考え始めた。

 光を跳ねてきらめく長い金の髪。それは、アルフォンスの兄、ハイデリヒが密かに想いを寄せているといってもいい、エドワードの象徴だったはずだ。

 しかし、目の前のアルフォンスは、髪の長さも金の瞳も、エドワードに似せて、だが全く異なる雰囲気を醸していた。

 第一纏っている真っ赤なコートといい、中に着ている黒一色のストイックなジャケットとパンツ、それから足元のごつい短靴といい、この白い部屋におよそ似つかわしくない。

 いや、こんな風体をして街を歩いたら─自分はそれすらしたことがないと、その時は思い至らなかったが─衆目を集めるどころか、下手をするとどこかに通報されてもおかしくないのじゃないか、とさえ思った。

「あなたは、ずっと寝ていたんだよ。」

 何故だか偉そうに、アルフォンスは鼻を鳴らした。

「え・・・ああ、そう─そうだね。」

 答えともつかない言葉を吐いて、ハイデリヒはそれでも、アルフォンスの奇妙な出で立ちから目が離せない。

「何さ。ボクのことそんなにじろじろ見て。起き上がったと思ったらそれなの。」

 ぎくり、と瞬間眼を逸らして、ハイデリヒは、ははは、と頭をかいた。

「いやまあその、何というか。」

「あのさ。」

 ベッドの脇に仁王立ちに突っ立って、アルフォンスがぐいっと顔を近づけた。

 そうして、やっぱり何故だか偉そうに、そして怒っているように言った。

「あなたがそういう態度だから、兄さんが困っちゃってんじゃないの? そんなことも分からない? ボクはちゃんと言うよ。兄さんに、ちゃんと告白する。探し続けてやっと会えたんだもの、目的は最後まで果たすつもりだ。─で、あなたはどうするの?」

「・・・」

 思考が、追いつかない。

 アルフォンスの言うとおり、ずっと寝ていたのは確かなんだろう。

 この白い天井は、真っ白に埋め尽くされたベッドは、おそらく病院だ。

 自分はここから出たことがなくて、それで─。

「ねえ、聞いてるの?」

 畳み掛けられて、ハイデリヒはごくりと唾を飲み込み、恐る恐るアルフォンスの視線を受け止めた。

「ボクはあなたに譲る気なんてさらさらないからね。たとえ、あなたが兄さんにどれだけのことをしてあげたのだったとしても。」

 アルフォンスはそこで言葉を切って、切なげに長い睫毛を伏せた。

「─ボクには、どうしようもなかったんだ。兄さんにも。」

 唖然と、一人喋り捲るアルフォンスの言葉を聞きながら、ハイデリヒの心の中で、遠くから警鐘が聞こえ始めた。

 ─何かが、おかしい。

「ア・・・アルフォンス君。君は─アルフォンス君、だよね・・・?」

 ハイデリヒの言葉に、アルフォンスは明らかにむっとしたようだった。

「なに、まだ寝ぼけているの。」

「いや、何か、ちょっと─」

 そこで、一瞬そうなのかもしれないと思ってしまったことが、ハイデリヒの敗北を決定づけたのだが、当の本人は気付いていない。

 アルフォンスの眇めた目線が鋭くなって、ハイデリヒは思わずシーツを握り締めて体を退いてしまう。

 そしてその直後、ハイデリヒは心臓が止まるほどぎょっとした。

 どんな言葉が飛び出すのかと思われたアルフォンスの唇はきっと結ばれ、反対に見開かれた瞳から突然はらはらと大粒の涙が零れ落ちたからだった。

「あっ!アルフォンス君、ちょっ・・・!」

 アルフォンスは、慌てた様子のハイデリヒを一顧だにせず、ベッドに身を投げ出すと、肩を震わせて泣き続ける。

 しゃくりあげながらアルフォンスが話す言葉に、ハイデリヒは更に吃驚した。

「あなたは撃たれてここに運ばれてから、ずっと眼を覚まさなかったんだ。」

「・・・へ?」

「兄さんもノーアさんもつきっきりで看てたけど、お医者さんももう眼を覚まさないだろうって言ってた。」

「ア─アルフォンス君?」

 先ほどから、アルフォンスの名前か意味のない素っ頓狂な言葉しか発していない。

 分かってはいたが、分かっているのがたったそれだけで、他は全く訳の分からない事態に、ハイデリヒはますます混乱してしまった。

「ボクだって、そんなこと卑怯だって分かってる・・・でも、あなたがこのまま眼を覚まさなかったら、って思わずにはいられなかった。今は混乱してて嬉しいのか悲しいのか分からないんだ。けど─」

「はい・・・」

 凄みのあるしかし美しく潤んだ瞳で睨みつけられて、思わずハイデリヒは背筋を伸ばして返事を返した。

 一呼吸置くと、アルフォンスは再び身を起こして仁王立ちになり、金髪を窓からの微風に弄ばれるまま傲然と続けた。

「あなたはこうして助かったんだから、ここからはお互いゼロからのスタートだよ。さっきも言ったけど、ボクは兄さんをあなたに譲るつもりはないし、一緒に過ごした時間の記憶もちゃんと取り戻したから、ボクの方がきっと有利だ。でも、あなたがこっちの世界で兄さんと暮らしてどれだけ兄さんを助けてあげてたかくらい、ボクにだって分かってる。そういう意味ではお互いフィフティフィフティかもしれない。」

「だからその─」

 ハイデリヒが必死でアルフォンスの流れるような言葉に割って入ろうとするのを、アルフォンスは平気で無視した。更に言葉を紡ぐが、ハイデリヒには何のことだかさっぱり分からない。

「あなたが永遠にいなくなってしまったら、勝負だって永遠に決着しないでしょ。ボクはそんなのはイヤだから。だから、あなたが眼を覚ましてくれて、心から嬉しいし本当に良かったって思ってる。」

 満足そうに吐息して、アルフォンスは傍から見たらくらくらするような妖艶な微笑を浮かべた。

「頑張ってくれてありがとう。でももう、さよならかもね。ボクらにはこの世界でするべきことがあるし、あなたにはあなたの人生があるでしょう? 残念だけど、兄さんのことは忘れて。兄さんにはボクがついてるから。一生守るから。心配しないで。」

「アルフォンス君!!」

 我慢が限界を突破して、ハイデリヒは大声でアルフォンスを遮った。

 どうしてだか肩で息をしながら、シーツを握り締めた拳がわなわなと震えるにまかせて、そのまま、怒鳴るような口調で続ける。我ながら思うに、生まれてこの方、出したこともないような大きな声だった。

「僕がずっと病で臥せっていたのは分かってるんだ。だけど、君の言っていることは何一つ理解できない。ボクが撃たれたとか、一体全体何がどうなってるんだ。一番訳が分からないのは、僕がエドワードさんと暮らしてたとかいうことだ。一体いつの間にそんなことになったんだ? 悪いけど僕の身に覚えはないし、僕は本当に─ここから出たことすらないじゃないか!」

 今度はアルフォンスがビックリしてきょとんとする番だった。

 眉根を寄せて、怪訝な表情を浮かべ、無言でハイデリヒを見つめ返す。

「なに? どういうこと?」

 冷たい口調で、アルフォンスが言った。

「ここは、あなたのアパートメントじゃない。兄さんと一緒に暮らしてた。」

「・・・え─?」

 視線を落とすと、握り締めたシーツの白が病院のそれとは違うアイボリーに一変した。

 ハイデリヒの視線の先に、やはり病院のリノリウムの床とは違う、年季の入った木材のブラウンが柔らかな光沢を放っている。

 我に返って天井を見上げたら、あの無機質な真っ白から、古ぼけて煤けたこれも木材の温かい色合いが目に飛び込んだ。

「─ええ?!」

 見知らぬ部屋、アルフォンスの後ろの窓からは、古風な町並みが見渡せて、その上に真っ青な空が見える。

 ハイデリヒは今度こそ本当に、紡ぐ言葉を失って唖然とするばかりだった。

 こんな場所は知らない。見たこともない。

 ましてや住んでいたなんて。それも、他でもないエドワードと一緒に。

 そう思ってもう一度部屋を見渡した。

 本棚にぎっちり詰め込まれている、研究書らしき本。机の上に広げられたり丸められたりしている製図と思しき精密な書き込みの入った幾枚かの紙。

 その上に転がった付けペンと、インクの瓶。

 そして最後に、ふと動かした手に触れた、一冊の本。

 ─ロケット─

 それは、宇宙への航行を可能にするための論文だった。

「これは─」

「あなたがその研究をしてたおかげで、兄さんはあっちの世界でボクと再会できた。そうなんでしょ。」

 少し拗ねた風にアルフォンスが唇を尖らせる。

「一時期は、兄さんも帰る方法を探して一緒に研究してたとかって。あなたのこと・・・すごく褒めてた。それに、感謝してる。今も。」

「僕は─」

 本を取り上げたハイデリヒの手は、打ち震えていた。

 これは、夢なんだろうか。

 叶わない夢なのだと諦めかけていた。

 それでもやはり捨てきれずに、危険だと言われた臨床試験の被験者として半ば強引に医師を説得した。

 何をされたのかなんて、具体的には覚えていない。

 体力も気力も、ほんの僅かハイデリヒの衰弱した体を支えているのが精一杯で、混沌とした意識の中で、やがて薄暗い、温かい闇の中に落ちて行ったという記憶だけが、おぼろげながら蘇ってきた。

 ─ああ。

 ハイデリヒは思わず溜息を漏らす。

 これはやはり夢に違いない。

 そうでなければ自分は既に天に召されたか、その直前、生への執着心から見ている幻の中に彷徨っているだけなのだ。

「─何も、こんなひどい仕打ちをしなくても」

 思わずこぼした言葉に、アルフォンスが即座に反応した。

「え。何さ。」

 相変わらず、アルフォンスの口調は鋭く冷たい。

「ひどいって。どっちがだよ。」

 いい加減ムッとして、ハイデリヒはアルフォンスの視線を真っ向から受け止めた。

「どういう意味だい。」

「あなたのやり方さ。」

 再び酷薄な微笑を上らせて、アルフォンスが答える。しかし、その表情に先ほどのような残酷で凄絶な印象は薄れていた。

 敢えて言うなら、不安を隠しているような、そんな脆くて危うげな雰囲気だった。

「そりゃあ、兄さんは鈍感だしなんかズレてるところもあるし、ボクだったらきっと辛抱できなくて押し倒してたかもしれないくらい、そういうのに疎いし。」

「お・・・押し倒す・・・?」

「あなたは辛抱強く待ち続けて、だんだん兄さんの心の中に入っていった。いつも穏やかでどこか儚げで、でも、確実に。」

 再び混乱がハイデリヒを襲う。

 構わずアルフォンスは言葉を続けた。

「ボクだって、兄さんがそういうのに弱いって分かってるよ。情に篤くて結構流されやすい。だけど、そういうやり方は、ボクの性には合ってないんだ。だから─あなたは、ずるいよ。」

 視線を俯かせたアルフォンスが再び泣き出すのじゃないかと、ハイデリヒは思わず身を乗り出した。

 確かにエドワードには好意以上のものを感じていたかもしれないが、アルフォンスの言う事はいちいちぶっ飛んでいる。

 ─兄弟、なんだよね?

 もしかすると本当は血が繋がっていないとか。

 そこでハイデリヒはその考えそのものを盛大に否定した。

 そういう問題じゃない。

 僕たちは、三人とも、健全なる─まあ自分に関しては目が覚める前まで「健全」だと言えていたか微妙なところではあるが、少なくとも精神的な部分においては─青少年のはずだ。

 告白、とアルフォンスは言い、エドワードを譲る気はないとも言った。

 これではまるで、三角関係のもつれた男女のようではないか。

 そもそも、その前提自体が大幅にハイデリヒの思考回路からはみ出している。

 しかし。

 その瞬間、エドワードの美しい金の髪と深い琥珀の瞳、それから、ぶっきらぼうなりに自分に生きることの執着を植え付けてくれた芯の強い真っ直ぐな性格を思い、知らず動悸が高まるのを感じた。

 女性だったら、と思わずにはいられないけれど、それを超えてエドワードはハイデリヒの心の奥深く、燻る火種を落としていたのかもしれない。

 そう、アルフォンスが嫉妬するほどに。

「・・・これが全部夢なら、まあ、それでもいいかも。」

 ぼそりと呟いたハイデリヒを、不思議そうに首をかしげてアルフォンスが見つめた。

 本当に、自分は今夢の中で、文字通り夢にまで見た未来を経験しているのかもしれない。

 空の上にある「宙」という場所へ行ける乗り物について、来る日も来る日も考えて暮らすのは、どんなにか楽しいだろう。

 実際、その記憶が自分にはないことは分かりきっていたから、もしかすると、やはり自分は天に召されたのかもしれない。

 ひどい仕打ちだと思いはしたが、しかしそれは、悪くもない夢だった。

 ひどく寂しい微笑がハイデリヒの頬に上って、アルフォンスが少しだけ眉を寄せる。

 ─生きたかった。

 だけど、いつ命が終わるかもしれないと諦念しか持てず生きていた頃を思えば、この夢はひどいどころか何て甘くて優しい夢なのだろう。

 こんなにも、自分が生きたいと願っていたことを、改めて見せつけられたようで、もう取り取り戻すことのできない、けれど暖かい記憶が、ハイデリヒの胸を締め付けた。

「ハイデリヒさん。大丈夫? まだ、痛む?」

 アルフォンスが、打って変わったような優しい声で呼びかけて、ハイデリヒの俯いた顔を覗き込んだ。

 思わず涙腺が弛みそうになった眼を瞬かせて、ハイデリヒが微笑む。

「─ありがとう。」

 言うと、今度はアルフォンスが泣きそうな表情になった。

「そんな言葉、聞きたくないよ。」

 アルフォンスが拗ねたようにそっぽを向く。

 と、突然がばりと身を起こして仮面を取り替えたかのように満面の笑顔を浮かべた。

「─あ、兄さん!」

「・・・え!」

 思わず知らず固まってしまうハイデリヒを尻目に、ベッドの脇から猛然と駆け出したアルフォンスをぎこちなく眼で追うと、ハイデリヒはそこに、強烈な光を見止めて息が止まりそうになった。

 はしゃぎながら抱きつくアルフォンスを優しく抱きとめながら、出会った頃と同じ、しかし長く伸ばされた輝く金の髪を優雅に揺らして、エドワードが部屋の入り口に立っていた。

 輝くような金髪のイメージより、少しトーンの落とされた蜂蜜色の金糸が、まるでさらさらと衣擦れのような音を立てんばかりにふわりと肩口から長く流れる。

 自分の知っているエドワードとは、アルフォンスの時に感じたのと同様の違和感があった。

 しかしそれは、美しさに輪をかけてハイデリヒの全思考を吹っ飛ばすような強烈な衝撃だった。

 見惚れるままに声も出せないハイデリヒは、間抜けにベッドに半身を起こした格好のまま、身動きすら、呼吸すらできなかった。

 エドワードの出で立ちも、ハイデリヒの知っているそれとは少々違って、古風なスタンドカラーのシャツに地味な色合いのジャケットにパンツ、しかしそれが、エドワード自身の、ハイデリヒを持ってして「美しい」としか形容し難い容姿を存分に引き立てている。

 幾瞬か、瞬きも忘れてそれだけの情報が眼から脳へと伝達される間に、ハイデリヒは思わず呟いていた。

「─エドワードさん・・・」

 アルフォンスがぴくりと背中をこわばらせた。

 エドワードの瞳が、その魅惑的な琥珀の瞳が、ゆっくりと上げられて、ハイデリヒを捉える。

 驚きと共にその瞳に湧き上がった感情は、一体どう形容すれば良いのか。

 エドワードが息を呑む音が、無言の三人の間でやけに大きく響いた気がした。

 懐かしいような切ないような、なんとも言えないエドワードの呼びかけが、ハイデリヒの耳に届く。



 ─アルフォンス─



「・・・エドワードさんっ!」

 なりふり構わず─ついでにアルフォンスの存在とかそういうことは一切見ない振りをして─ハイデリヒは思いのたけを満身に込めて叫んだ。


 ・・・つもりだった。


 急に、ベッドサイドの窓がぐん、とその大きさを増し、見えていた町並みが急に遠ざかって、真っ青な空が落ちてくるかのように自分の上にのしかかってくる錯覚を覚えて、ハイデリヒは身を捩った。

 一瞬そちらに気をとられて、慌てて二人の方を振り向いたら、少し不満げな表情のままエドワードに寄り添うアルフォンスと、切なげな表情を浮かべたハイデリヒの知らないエドワードが、後ろから射してくるまばゆい光の中に飲み込まれようとしていた。


「─待って!エドワードさん!アルフォンス君!!まだ・・・まだ行かないで!僕を置いて─!」




「ハイデリヒさん!?」

 真っ先に眼に飛び込んできたのは、一面の碧だった。


 ハイデリヒを覗き込む一対の心配そうな瞳も、やはり青。

 そして、白くも木材でもない天井は、一面、様々な碧で埋め尽くされていた。


 がたん、とスツールが派手な音をたてて床に倒れる。

 眼だけを動かしてそちらを見遣ると、プラチナブロンドの長い髪に白衣の女性が、両手で口元を覆って勢い良く立ち上がったところだった。

 思考は混沌としていたが、ただ、彼女への呼びかけが、口から自然と紡がれた。

「─ウィンリィ・・・さん。」

 その瞬間、ウィンリィの大きな瞳が瞬く間に歪み、大きな涙の粒がぽろぽろと手や頬を伝って床に零れ落ちた。

 何が起こっているのか、それまでのことが夢だったのか、それともこちらが夢なのか分からないまま、ハイデリヒは微笑して言った。

「─どうして泣くの?」

 途端、ウィンリィはきっと唇を引き結び、だん、と床を蹴って、駆け出しつつ大声で叫んだ。

「せっ!先生呼んでくるっ!!」


 見知った白い天井ではなかった。

 焦点が合うまで、それが幾枚も貼られた空の写真だとは気付かなかった。

 ハイデリヒは、まだ自分の体を起こすことも、腕すら動かすこともできないのを悟って、それでも大きく吐息すると、柔らかに微笑った。

 ─戻って、来れたんだ。

 大切に思ってくれる人たちの祈りを無にすることなく、帰ってこられた。

 天井に貼られた写真をぼんやりと見上げていると、いつの間にか目尻から暖かい涙が枕を濡らす。

 先ほどまでのリアルな体験が夢だったとは、俄かには信じがたかったけれど。

 ─生きてる。

 それだけは信じられた。

 今は、それだけで、世界中の誰よりも幸福だと思えた。

 

 いつの日か、あの夢とも現実ともつかないような世界のように、自分はロケットという月に行ける乗り物に携われる日が来るのだろうか。

 そして、アルフォンスとも、エドワードとも真っ向から向かい合わなければならない日が来るのだろうか。

 

 今はまだ、何も分からない。

 夢の中でアルフォンスが言ったみたいに、お互いフィフティフィフティ、ゼロからのスタートもまた、良いかもしれない。

 そんな風に自覚した自分に、思わず苦笑が漏れた。


 ふと、差し込んでいた陽射しが雲に隠れて、病室に満ちていた光が急に後退する。

 眼を向けた壁一面に、浮き上がった幻想的な星々が、圧倒的な空間の広がりをハイデリヒに見せつけた。

 

 命をつないだサナトリウムの片隅の病室の中で、遠くからばたばたと足音が耳に届いた。

 そうして、ハイデリヒは再度、本当に、心からの笑みを浮かべて─深く満足そうに吐息した。



<完>









大変遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます!
本当は年末年始の休暇中に仕上げる予定だったものが、こんなに延び延びになってしまって面目ありません。。。

礼様が、いつかのメールの中で、サナトリウムのその後はどうなったのか、ということを書かれていたのがきっかけで、この話ができあがりました。
夢の中だけど、シャンバラのハイデリヒにいろいろ言いまくるアルが書けて(笑)大変楽しゅうございましたw
私の中では、それでもアルがめんこくてたまらないのですけどね(苦笑)。

そんなわけで、お待たせしたわりにはおそまつなものですが、ご笑納いただければ幸甚至極です。

礼様にとってこの一年、佳き年になりますように!
お着物デートやイベントにて、今後ともお会いできることを楽しみにしております。

2008.2.13 初錬成

2008年 バレンタインに寄せて。

のわこ 拝





夢の中と仰ってますが、デリたんはきっと「兄弟」に会ったのだろうと信じています(笑)アニメの世界はそれすら許容する懐の広さを持ってますからね!(言い切る)(ついでに向こうのハイデも目を覚ましてればいいのに・・・←ハッピーエンド好き)アル様は自由すぎて愛しいです(笑)
未来を感じる素敵なお話をありがとうございました!こちらこそこれからもよろしくお願いします。

08.3.4 礼