防弾を施されたガラスを叩く前に、窓が静かに下がった。
黒塗りの車はどこにでもある他愛ないものだが、乗る人間を守るための装備が施されている。
声を通すために少しだけ下げられた窓の中から、どこか笑いを含んだような声が話しかけてきた。
「ひとりとは珍しい」
 男はアルフォンスを見ずにそう言った。
「だいたい察しはつけてらっしゃるんじゃないですか?」
黒いボディに腕を置いて発した声は、自分でも驚くほど冷たい。
「高い評価は有難いがね。残念ながらさっぱりさ」
どうだか。と更に冷たく考えながらアルフォンスは言う。
国軍大佐ロイ・マスタング。彼はその地位に見合った能力と狡猾さを兼ね備えた男だった。

「先日、家に大きな花束が届いたんです。兄宛に」
「ほう」
「白い薔薇の花束でした」
「ふむ。赤い薔薇でなくて良かったな」
「本当にそう思われますか?」
問い返したアルフォンスの視線の先を、別の車が埃を立てて走り去ってゆく。
舞い上がる砂塵を見ながら、この国にうつくしいものは兄だけだとアルフォンスは不意に思った。彼のいない風景は、どうしてこんなに黄色く煙っているのだろう。
「白い薔薇の花言葉は尊敬、加えて純潔」
 マリアの象徴だったなと呟いたロイが知らないとは思えない。
「兄の意に反して、マリアのあだ名はあちこちに流布しているようです」
「君の兄は無駄に派手だからな」
アルフォンスはそう言われて初めて少し笑った。無駄にという言い方に兄は怒るだろうが、アルフォンスもそう思う。
「言っておくが君もだぞ」
「・・・」
「君達兄弟は本当に派手だよ」
 そう言ってロイは笑った。



エルリックファミリーは新興の小さな勢力だった。
兄弟は母と共に家から離れて暮らしてきたのだが、父の死を契機に跡を継いで二年近くが経とうとしていた。
ファミリーはエドワードがボスとなって以降着実に力を付けて、その名を轟かせている。
エドワードはボスであるにも関わらず、抗争があればまず自ら先頭に立つ。
小さな体と息を飲むほどの容姿の彼が、驚くべき強さで敵をなぎ倒す姿を見た者たちが、その姿を拷問具『鉄の処女』に擬えたところから更に発展して『マリア』と呼ばれ始めたのだ。そのマリアに『白い薔薇』を捧げようというのだから、アルフォンスとしては深読みせずにはいられない。
「兄の名前宛に無記名で白い薔薇が届くというのはひどく意味深だと思いませんか」
「・・・女神の足を血で染めると?」
 やはり知っているではないかとアルフォンスは口角を上げた。
「杞憂ならそれでいいと思ってますよ」
聖母マリアは世界中で根強い信仰心を得ている。教会はその信仰は神の為のものだと言っているにも係わらず。
それは何故か。――世界を虜にしてきた宗教はキリスト教に限らず、土着の信仰をその内部に取り入れ、変えていくことで民衆に受け入れられてきたからだ。
それ故、自分たちの教えと民衆の信仰心の折り合いがつかずに揉めることも多々ある。
マリア崇拝を教会が散々批判してきたのもそのひとつだ。
キリスト教は一神教。マリアは神では無い。
崇めてはならないという教会の言い分は、恐れに近い。何故なら聖母マリアもまた土着の女神達の性質を取り込んでいるからだ。
例えばマリアの象徴の花である百合と薔薇。百合と白薔薇はその純潔を、赤い薔薇は母としての性質を表すといわれるが、百合も薔薇も世界のあちこちの女神達がシンボルとして持っているものである。
世界中のそれぞれの土地で崇拝される様々な女神達は、多く三相一体の相を持ち、処女=創造者であり、母=維持者であり、老女として死をもたらすものであった。
キリスト教でいうところの【父と子と精霊】がこれにあたるのだが、神ではないマリアには受け継がれず、しかし補う者としての役目を与えられたのだ。
様々な宗教で太女神信仰はその相を分かたれ、またはその性を変えられ、時には悪魔と貶められながらもそれぞれの宗教に形を変えて残ってきた。
この例に違わず「処女」と「母」の性質を受け継いだマリアが「女神」として民衆から崇拝の対象になるのは当然とも言える。
女神達を受け入れることでマリアを受け入れさせてきた以上、彼女の持つ神性をどれほど否定してもしきれるものではない。
教会がどれほど否定しようと世界にマリア信仰が絶えずにいるのはこのためだろう。


「薔薇といえばアフロディテ。そう考えるのはむしろ自然だと思いますが」
「神話のごとく、アドニスを追って駆け抜けた茨の道に傷を負って白い薔薇を血に染めることのないように、か」
アルフォンスの言葉にロイが笑う。
「考えすぎだと思うがね」
サンドロ・ボッティチェルリが『ヴィーナス誕生』に描いたように、薔薇は彼女が泡とともに生まれたときその美しさに捧げられたとされた花でもある。
神話によれば、彼女の愛した少年アドニスが瀕死の重傷を負った際に、慌てて彼の元へ駆けつけようとして薔薇の刺に足を刺し、それが白い薔薇にこぼれて赤く染まったのだという。
そうして生まれたという赤い薔薇。一説にはアドニスの死に際し女神が流した涙が白薔薇を赤く染めたとも言われる。
白薔薇が純潔や尊敬という意味を持つ一方で、死の悲しみという意味も持つのは恐らくここから来るものだろう。
「でも可能性はゼロではない」
 深読みをしようと思えば幾らでも出来る。深読みのしすぎだと言われれば返す言葉は無いが、兄を傷つける可能性があるならば、アルフォンスは幾らでも疑う。
「それは・・・勿論」
「兄だけではない、ボクもです」
 もし白薔薇をそういう意味で送ってくるような穿った人間なら、ターゲットがアルフォンスであることは十分考えられる。アルフォンスが狙いであるのなら兄の身は安全だろうが、万一アルフォンスが傷つくようなことがあれば、エドワードがいかに悲しみ、憤り、傷つくことか。
兄を傷つけるものはそれが肉体だろうと精神であろうと許すつもりはないのだ。
「ふむ。まあ覚えておこう」
どこまで本気かは判らないがロイは頷いた。アルフォンスは目礼を返す。
彼は狸だが、どこかまっすぐさを感じさせる性分だった。侮れない男だとは思うが信用は出来る。
「お願いします」
「この借りは高くつくぞ?」
「そうでしょうね」
アルフォンスは小さく笑った。車体から体を離すとまた音も無くガラスが上がり始める。
「君にそういう言われ方をするとどうも落ち着かんな」
「貴方の有能な部下に習って日々精進していますので」
窓は上がりきったが、彼の憮然とした表情がアルフォンスの言葉が伝わったことを表していた。車を見送ってアルフォンスはポケットから時計を取り出す。
時間が迫っていた。



「いらっしゃいませ」
近くにあった花屋に入ると、エプロンをした若い女性が笑顔を振りまいた。
花を贈る人間のことを思えば卒倒されそうにこぢんまりとした店だったが、構わずアルフォンスは薔薇の挿してある一角に目を向けた。二、三種類ずつ束になって銀のバケツに入れられた辺りを見てふと目に付いた薔薇を指す。
「いい色の薔薇があるね。これを一輪もらえるかな」
「はい。これルイ十四世という名前なんですよ。今の時期は特にいい色なんです。プレゼントでらっしゃいますか?」
「うん。こんなに黒い薔薇があるんだね」
「小さいですけど存在感のある花ですから、包装は透明のフィルムにさせて頂きますね。もう少し開くとクリムゾンレッドから更に深い色になりますよ。リボンのご希望はございますか?」
「黒はある?」
「ございますよ。プレゼントにはあまり使われない色ですから、たくさん残ってます」
言いながら店員が笑う。レースの黒いリボンがくるりと巻かれた。
「黒薔薇に合わせるとお洒落ですね。リボンは少し長めにしておきましょうね」
「ありがとう」
アルフォンスが笑い返すと、店員が慌てたように目を伏せた。
「恋人にプレゼント、でらっしゃいますか?」
「いいえ。でも・・・黒薔薇なら恋人から貰ってみたいですね」
 彼女はアルフォンスの言葉に頬を赤くすると、ますます頭を下げて、ありがとうございましたと小さく言った。それに会釈だけを返して一輪の薔薇を手に店を出る。
先日送られてきた薔薇の花束に関しては、アルフォンスの杞憂である可能性もあるので、エドワードには話していなかった。当然ロイと会うことも伝えていない。
別の用事に紛らせて少し早めに出てきたのだ。運転手には花屋に行くと伝えて、少し時間をつぶすように言ってあったので、さほど待たずに車が目の前に滑り込んできた。
「お待ちになりましたか」
「いや、ちょうどだよ。悪かったね、待たせて」
「いえ。ブランヴィリエ夫人の邸宅でよろしいですか」
「うん、頼む」
アルフォンスは車に乗り込むと、椅子に深く腰掛けて目を閉じた。まだ開きかけの薔薇が甘く香る。
マリー・ブランヴィリエ夫人はフランスの公爵夫人だ。
もう長く夫と別居してこちらの別荘に居住しているらしい。夫人は薔薇を愛しており、誰からでも薔薇しか受け取らないというのは有名な話だが、何より彼女は毒薬に通じており、彼女の住む邸宅の地下には万を超える毒のコレクションがあると言われる。
自分達のようなマフィアだけでなく、貴族達でも多くの者が多かれ少なかれ彼女の手を必要としている。
アルフォンス達自身が毒薬を使うような手段を選ぶことはほぼ無いとはいえ、仲介役を負うことは多かった。兄がどれほど彼女を嫌おうとも彼女はエルリック家の大事なルートだ。
兄の不機嫌な顔を思い出してアルフォンスは小さく笑った。彼はマフィアのくせに陰湿な手法を好まない。
(というか派手好きというか)
誰に対しても真正面から喧嘩を売るようなところがあるので、毒を使うというのは性に合わないのだろう。本音を隠した駆け引きを好まない兄に代わり、その必要がある時はいつもアルフォンスが出て行っていた。
今回は多少、私的な目的ではあるのだが、兄は普段この手のことを弟に任せているという負い目があるので何のためにとは聞いてこない。それを利用してのことだった。
それでも。
夫人のところへ行ってくるよと言うと、兄はくちびるをひん曲げた。



「ああ、そんな風にしたら綺麗な顔が台無し」
「誰がキレイだ」
夫人のところへ行ってくると言っただけで不機嫌な顔をした兄は、アルフォンスの言葉に更に機嫌を悪くした。
「それはもちろん兄さんだよ」
答えて長い前髪を指先で辿ると、彼の目が釣り上がる。
「お前の感覚にはついていけねえな」
「兄さんは怒った顔も綺麗だね」
「・・・わざとだな?お前わざと言ってるだろう」
「だって」
怒った顔がうつくしいひとは本当にうつくしいというのはよく言われる話だ。彼を見ていればそれが正しいことがよく判ると思ったことは事実なのだが、素直に聞いてくれない彼に意地になっている部分はあった。
「兄さんちっともボクの言うこと信じてくれないから」
「おい」
アルフォンスの言葉に本気でエドワードが怒った。アルフォンスのネクタイを掴むと引き寄せる。
「誰が信じてないって?」
「・・・でも本当に兄さんは綺麗だよ」
鼻先が触れてしまいそうな位置で睨まれても負けずに再度囁けば、エドワードはまだ言うかと鼻白んだ顔をして、両手で自分の頬を思いっきり引っ張った。
「・・・兄さん」
目の前でびろんと見事に横に伸びた顔に、アルフォンスは目を瞬かせた。驚いた。さすがにこの兄は何をするか判らない。これでもまだ言うかと言わんばかりなので少し距離を置いて改めて見てみる。
「う、ん・・・それはそれで結構可愛いよ兄さん」
「・・・」
弟がそれなりに本気で言ってることに気付いてしまったらしいエドワードは、返す言葉も無く少しの間そのままでいたが、やがて諦めたように手を離した。
「お前の感覚にはついていけねぇ」
「あ、なんだそういう意味?でもね、ボクには本当に兄さんが世界で一番綺麗に見えるんだよ。綺麗だし可愛いし、ほんとどうしよう?」
「・・・そういうのはあのオバサンにでも言ってやれ。喜ぶだろ」
「喜ぶかもしれないけど、夫人に言ったからって兄さんに言う量が減る訳ではないよ?」
「・・・頼むから言うな」
「いい加減慣れて欲しいなあ」
「お前こそいい加減諦めてくれないか」
この手の会話はよく交わす。もはやコミニュケーションに近いのだが、エドワードがあまりにもうんざりした顔をするのでアルフォンスは拗ねてみせた。
「でもそれってボクに貴方を見るなって言ってるのと同じなんだけどな。だって貴方を見てると口をついて出てくるんだから」
拷問だ。と笑えば「慣れろ。あるいは考えるだけにしろ」とにべもなく言われてしまった。
「判った。貴方がそう言うのなら努力する」
見上げてくる視線に笑いかけると、エドワードは盛大に溜め息をついた。
「お前ってさあ・・・」
「うん?」
エドワード・エルリックという人は、昼間は九十九パーセントの確率で雰囲気に流されてはくれない人だ。夜になれば可愛い程素直なのだが、どうも明るいと羞恥心ばかりが先に立つらしい。
だが実際くちびるを引き結んで、ダークスーツにそのしなやかな体を閉じ込めた兄は、畏敬の念を抱く程うつくしく、尊大で、どこまでも特別だ。
世俗のことなど知らない、涼しい顔で。汚すことを許さない高潔さで。アルフォンスを虜にする。
マフィアなどという家業を継いで、その当主として汚れた仕事を請け負っても彼の光は少しも損なわれることがない。
聖母マリアの異名をつけられたのは、何も錬金術という一般人には不可思議な技を使うことや、体についた鋼鉄の義肢のせいだけではないだろう。
鮮やかに強い金色の目。アルフォンスのために伸ばされた華やかな金の髪。
「綺麗だ・・・」
見上げてくる頬を撫でて、触れた髪にも指をすべらせるとエドワードは更に大きな溜め息をついた。
「お前ってそういうやつだよ・・・」
今怒られたばっかりだったと、アルフォンスは思わず口を押さえる。
「・・・ごめん、でも」
「ああ、もういい早く行って来い。時間に遅れるぞ」
呆れたエドワードがそう言ってアルフォンスは時計を見た。
「ほんとだ。・・・じゃあ行ってくるね」
名残惜しく頷いたアルフォンスに、エドワードはようやく微笑んだ。
「おう、気をつけてな」
「夜には帰るようにするから」
「ん」
見上げたエドワードの額に思わずくちびるを落とすと、彼はまたくちびるを曲げた。

        


「あら、お久しぶりだこと」
「ごぶさたしております。夫人」
会釈したアルフォンスに、マリー・ブランヴィリエ夫人はソファにゆったりと腰掛けたまま華やかに笑った。
「まあ、綺麗。ルイ十四世ね?」
花を差し出すと、彼女は目を細めた。
「さすがにご存知でいらっしゃる」
「青い薔薇と同じように黒い薔薇も職人の大望とするところ。黒薔薇と名前はついていても、その実、色はお天気とお花まかせなのよ」
「ブルーローズといえば不可能の象徴でしたね」
「そう。でも世の中には叶わないことがあった方がいいのよね」
「貴女には叶わないことなどなさそうなのに」
「あたくしは欲深ですからね。・・・あなたこそ」
夫人は体を起こしてアルフォンスから手渡された黒薔薇に頬を近づけて嫣然と笑った。
「それほどに若くて、それほどにうつくしく才能に溢れ。それでもまだあたくしの手を借りようというの?」
「ボクも欲が深いんですよ」
その黒薔薇に指先を寄せてアルフォンスも笑った。
黒薔薇の花言葉は束縛。
できるものなら、がんじがらめに縛られたいと願う。その残酷さとうつくしさを鉄の処女と呼ばれる処刑具に擬えられた兄の腕にならば、その無数の針の痛みに耐えてでも。
あの人を、手に入れたいと・・・願う。
「いいでしょう」
夫人は赤い口角を上げる。
「あたくし、あなたが気に入っているの。どんな毒でも用意して差し上げてよ。あなたは、何がお望み?」



手元に毒薬を置くことは、例えエドワードが渋い顔をするとしても必要なことだった。
この手に銃を握らせるように、敵対するファミリーに容赦の無い攻撃をするように。
国家の闇の部分を背負う集団。それがマフィアなのだから。エドワードもそれを判って、出なければいけない時に尻込みするようなことはない。
何より彼は強い。それは判っている。それでも彼のまっすぐな性分は、時にアルフォンスに危うさを感じさせる。
いつかそれが兄の足をすくうことにならないかと。杞憂ならばそれでいい。だが先程ロイに言ったように、可能性があるならアルフォンスは放っておけないのだ。
ボスである彼の方針に従うことはやぶさかではないが、さらに安全さを求めて根回しをするのはアンダーボスである自分の役目だとアルフォンスは思っている。
エドワードの機嫌を損ねるのを恐れて、秘密裏に事を運んでいるのは多少気が引けるが、適所適材というように人には向き不向きがあるのだし。
だが。
「さあ、どうなさるの?」
「・・・ボクは確かに欲深です。ですがこれはあまりにも分の悪い賭けですね」
「そうかしら。たった半分の確率。それに勝てば貴方にこれを差し上げようと言うのだから、むしろ親切ではない?」
目の前に置かれたふたつのグラス。
とっておきの毒があると言った夫人が出してきたのが、これだった。金銭でやり取り出来るような価値のものではないのだと言って。
「ひとつはただのワイン」
「・・・もうひとつには、かのボルジア家の毒・・・ですか?」
「飲んだって死にはしないわ。ちょっと苦しいかもしれないけれど。あたくしあなたを気に入ってるのだもの。まさかそんなことはしないわよ」
嬉しそうに、楽しそうに夫人は笑った。兄が嫌うはずだ。退屈しきった人間が人を玩ぶことを楽しむ笑み。
アルフォンスは心底からひとりで来て良かったと思いながら、片方のグラスを手に取る。
「そう。そちらを取るの」
分の悪い賭けだとは思うが、有名なボルジア家の毒が手に入るのならば、願ったり叶ったりである。アルフォンスは、この毒が実在するとは思っていなかった。・・・当然彼女の嘘である可能性もあるが。
だが彼女の愛する薔薇ど毒のことならば。
「あなたの言葉を信じることにしましょう」
「・・・ふふ」
 ブランヴィリエ夫人が真っ赤な口角を上げて笑う。
「あたくし、本当にあなたのような人は大好きよ。その矜持や尊厳が崩れたらどうなるのかと、考えるだけでわくわくする」
「それがこれですか」
夫人の薔薇色に染められた指に頬をなぞられながら、アルフォンスは冷たく言った。ボルジア家の毒は使い様で如何様にも使えるのだという。息の根を止める時間を自由に操れるのだと。
「恐ろしいでしょう。あたくしはあなたを殺さないと言った。だけどあなたはそれを信じはしないでしょう。毒の効果は使う人間の自由に出来る。・・・それでもあなたはコレを望むわね?」
もしアルフォンスが、いやエルリック家がそれを手に入れたとなれば、目の前の、日々の生活に心底倦んだ彼女の口から瞬く間に噂が広がるだろう。それはこの世界で大きな牽制力になるのではないか。
―――あの人を、守る、力。
「頂きましょう」
言ってアルフォンスは、グラスを掲げた。

        


「アルフォンス様、おかえりなさいませ」
「・・・ただいま。遅くなって悪かったね」
「どうかされましたか。お顔色がよろしくないようですが」
「・・・夫人のところで少し強い酒をもらってね。もう休むよ。兄さんは?」
「お部屋でお休みになっておられます。札は、かかっていないようですが」
「そう」
「お声をおかけしましょうか」
「いいよ。もう遅いし。もし聞かれるようなことがあれば、寝ていると伝えて」
「かしこまりました」
「おやすみ」
アルフォンスは出来る限り平常を保って部屋へ歩く。じわじわと体中に広がっていく熱に、アルフォンスは歯噛みした。



―――いかが?
 ワインを飲み干したアルフォンスに、夫人は薄く笑って聞いた。
―――どうも、無いようですが?
 アルフォンスも薄く笑む。
―――そう。それではあなたの勝ちということね。
 もちろん負けたとしてもこれはあなたのものだけれど。と夫人は指先で小瓶の蓋の淵をなぞった。
―――あなたは飲んだのだから。
 目の前に差し出された小瓶に手を伸ばすと指先をとられた。冷たい指にアルフォンスは手を引きそうになって、それを耐えた。
―――頂いて、いきます。
 手のひらだけで小瓶を押し付けられ、絡んでいた指先が手の甲を撫でていく。ぞわりと背中を悪寒が這ったが、勤めて平静な振りをした。離れていった後も、彼女は薄く笑みを浮かべたままソファに戻る。
「・・・・・・」
「どうかなさって?」
「いえ」
じわりと、体の奥から熱が生まれるようだった。
「・・・」
一瞬ひやりとした。毒の効果を出す時間は自由自在。その事実がアルフォンスの体の熱を下げる。そのくせ身の内から生まれてこようとする、この熱は。
「・・・ずいぶん長居をしてしまいました。お暇致します」
「まあつれないこと。あなたが来るというから食事会の用意をしたのよ。皆も楽しみにしているのだから参加なさって?」
「・・・ですが」
「いいでしょう?あなたは賭けに勝ったのだもの。そのお祝いよ」
アルフォンスが答える前に、完全に話を決めてしまった彼女はさっさとメイドを呼んでしまう。今すぐにでも帰りたいと思う一方、この変調を気取られないために、急ぐ様子を見せてはいけないという思いもある。
「それに、その毒の使い方をまだお教えしてないわ」
その言葉が決め手になった。アルフォンスは溜め息をついた。


―――一匙で一日。二匙で半日。


自分の部屋に戻ってネクタイを緩めると、ようやく息をついた気分になった。ブランヴィリエ夫人のパーティーに付き合わされてしまったのだが、彼女はアルフォンスの不調を見破っているようだった。
アルフォンスも時間が経つに連れ、自分の変化に気付かないではいられなかった。内側からの熱は次第にあふれるようになり、夫人と同じく退屈しきったパーティーの客人たちはわざとアルフォンスの熱を煽る。そう。
ボルジア家の毒は、媚薬としても働くという話を聞いたことがある。なるほど彼女にアルフォンスを殺す意図は無かった。だが両方のグラスに媚薬を入れるぐらいのことはしかねない。どうせ誰がアルフォンスを落とせるかというくだらない賭けでもしているのだろう。
だが彼女達はアルフォンスを甘く見た。
アルフォンスは手にした小瓶を電灯に翳す。雪白な味の良い粉薬。そう謳われるボルジア家の毒。
使い方ひとつで即死にも、緩慢な死にも使えるという毒は誰もが喉から手が出るほど欲しがる。それがまさかこの手に落ちてくるとは思っていなかった。
薬を飲まされるという多少の代価は払ったが、今頃夫人もまた歯噛みしていることだろう。アルフォンスは貴族の女性達に失礼にならない程度に相手をして、何もなかったかのように早々に出てきたのだから。
「遅かったな」
「・・・っ兄さん!」
びくりとしてアルフォンスは瓶を握りこんだ。振り向くと兄がアルフォンスのベッドからもぞもぞと起き出すところだった。
「どうしたの?こっちで寝てたの?」
彼にとってはまだ宵の口だろうに、すっかり寝入っていたらしい。目をこすりながら大欠伸をする姿に、パーティーでは我慢できたはずの熱が、また上がっていくのを感じた。
「うん、何か寝付けなくて。本読む気にもなれなかったし」
瓶はポケットに入れてベッドに近付くと、眠そうな、とろりとした視線が見上げて、胸が高鳴る。
「じゃあ起こしちゃったね?ごめん」
「・・・うん」
揺らめく金色に惹かれてそっと指を伸ばせば、昼間とは違う少し嬉しそうな顔に迎えられて、アルフォンスは身を凍らせた。頭の中で突然警鐘が鳴り響く。


―――半匙だけワインに入れて半日置けば。


「兄さんはそこで寝てていいよ。ボクは兄さんのベッドを借りていい?」
慌てて指を引いた。できるだけ平静に言ったつもりだったが、エドワードは怪訝そうな目でアルフォンスを見た。
「・・・お前がここで寝ろよ、オレは戻るよ」
「いいよ。いいから!」
寝る間際のエドワードの髪は解かれて、さらりと肩から滑り落ちる。夜着はやわらかに乱れて、きちんと止められていない胸元から見える鎖骨の線が、もはや凶器に思えた。
「ボク行くよ。起こしてごめんね」
我慢できたと思っていた。だがそれは思い違いで今頃。
「アル?」
今頃効いてきたのかもしれない。
「触らないで!」
今まさにアルフォンスを捕まえようと手を伸ばした兄を大声で止めた。
「・・・」
「ごめん。明日になったらちゃんと話すから、今日は、・・・ごめん」
驚いた顔の兄に急いで言って身を翻す。
「待て」
だが、それを阻む言葉と冷たい手。
「そんな顔してるお前をひとりに出来るか」
「・・・っ」
それでもアルフォンスはその手を拒んだ。触れられた箇所が燃えるように熱くて動揺した。
「ボクの為なら、今日だけは許して」
手のひらを引き剥がす。それですら熱した鉄に触れたような気になる。
「アル!」
「貴方を傷つけたくないんだ!」
力ずくで引き剥がすと、あまりの勢いにエドワードが体勢を崩した。しかしそれを助ける余裕も無く、アルフォンスは逃げ出した。
「待て」
しかし床に這った姿で、アルフォンスのスーツの裾を掴む、手。
「にいさ、ん」
「オレが、お前に傷つけられることなんてあると思うか」
アルフォンスは目を見開く。
「アルがつける傷なら、それは傷にならない。お前が辛い分はオレが全部受け止めてやるから」
捕まれた手の熱さとその言葉に動けなくなったアルフォンスを、エドワードは起き上がって囲うように抱きしめる。
「どうした。何が苦しい。兄ちゃんに言ってみろ」
「にいさ・・・」
エドワードの熱と匂いにアルフォンスはくらりとした。
「・・・お前、熱い・・・か?熱があるのか?」
アルフォンスの生み出す熱に驚いたように一瞬腕の力を緩ませたと思った時には、兄を床に組み敷いていた。
「アル・・・?」
不思議そうな顔をした兄のくちびるを塞ぐ。有無を言わさない勢いで舌を差し入れると、エドワードの体が一瞬強張った。それも気にせずに口内を貪れば、脳の奥の方がじんと痺れる。
「は・・・ア」
息つく暇も与えないタイミングでボタンを外しにかかって、勢いで弾き飛ばしたが、それも気にならなかった。
「兄さん」
酷く甘かった。くちびるを落とすどこもかしこも甘い。首筋を執拗に舐めながら開いた胸を撫でる。
「アル」
「黙って」
短く制止すると、アルフォンスは自らの下肢を押し付けた。
「今更、嫌だなんて言わせないよ。もう忠告はしたからね」
胸の先を指で擦ると、エドワードの口から耐え切れない息が漏れる。それにますます追い上げられて、彼に触れているだけで達してしまいそうだった。
「嫌、なんて言うか、よ」
切れ切れの息の合間にエドワードが囁く。
「オレだっ・・・て、言ったはずだ。受け止めてやるって」
エドワードはそう言ってにやりと笑った。


        


「・・・っ」
淫猥な音を立てながら、エドワードがアルフォンスの下肢から顔を上げた。
「我慢すんなって。薬飲まされたんじゃ、一回や二回抜いたくらいでどうにもならねえだろ?」
言葉には何の色気も無いが、こちらを見上げて笑う兄の姿は脳髄に直接響く。しかも彼の舌は呆れる程丁寧にアルフォンスを追い上げていた。
「・・・どこで、そんないやらしい舌使い覚えてきたの」
「お前の、真似してるだけだろ」
手も口もそうだが、彼の肩からつるりと落ちる髪の毛先が、足の付け根をくすぐるのがたまらない。邪魔になるのか、時折自分で髪をかき上げる仕草も、苦しげな息が触れるのも。
「それってボクにされてるの、想像しながらしてるってこと?」
丹念に先の方を舐めていた舌の動きが止まる。
「煩い。黙ってされてろ。つーか早くイけよ」
「嫌だよ、もったいない」
エドワードは苦々しげな顔をしたが、それでも止めはしない。上気した頬をいっぱいにする様は、見ているだけでやはりイキそうになるが、もっとという気持ちの方が強かった。
「ボクが兄さんのをしてあげる時はね、兄さんすっごく可愛いよ。舐められるの好きだもんね?・・・・ああ。そこも、兄さんの好きなとこだよ?」
アルフォンスの言葉に背中をひくりと動かすのを見ながら、ゆっくりと頭を撫でてやる。
「そこを舌でぐりぐりしてあげると兄さんすぐイ、」
アルフォンスの言葉に我慢できなくなったように、エドワードはスピードを早めた。アルフォンスも今度こそ我慢しなかった。反射的に逃げようとするエドワードの頭を押さえ込む。
「・・・っ」
「は・・・」
熱を放っても、ひりつくような渇きは止まらない。そのくせ頭の奥の方は冴えている。いつもよりずっとどこか冷めていて、愛しい気持ちは確かにあるのに、酷くしたくて堪らない。

「ちゃんと全部飲めた?」
「うるせ」
エドワードもそれは感じているはずだった。だが大したことでもないといった顔で、エドワードは粘つくくちびるを拭って顔を上げる。そのくせ上気した目尻が淫靡で、アルフォンスは微笑った。乱れた髪を耳にかけてやると、含み切れなかった分が、髪にも顔にも飛んでいた。
サイドボードにある水差しの水を取って、エドワードに渡す。その手が小さく震えていた。
「上手だったよ」
「そりゃ良かったな」
今までアルフォンスは情事の際に彼に快楽を与えることだけを優先してきた。彼が闇の中で快楽に溶けていく様が好きだった。どろどろに溶けて、アルと必死で弟の名前を呼んで、ひたすらにしがみついて来る腕や足が好きだった。
だが今の彼の様子はどうだ。快楽を与えるばかりで与えられず、それでも快楽を知る体が、燃え燻るように。

アルフォンスを誘っている。

エドワードは受け取った水を煽りかけて、アルフォンスをちらりと見て酷く嫌そうに言った。
「・・・どうにもならねえって言ったのは例えのつもりだったんだがな、弟よ」
エドワードの視線を追って自らの下半身を眺めて、アルフォンスは笑う。
「すぐに入れてもらえて嬉しいでしょう」
止まらない渇きといくらでも沸きあがる劣情は実直にその屹立に現れていた。一度や二度吐き出した位では全然足りない。それどころか兄の姿を見ているだけで、ますます興奮してくるのだ。
「今度は自分で入れてみる?」
言いながら、兄の唾液と自分の出したもので濡れるそれを自らの手で撫でつける。見ていたエドワードが赤い頬をごまかすように再度水差しを直接口に当てる。
「お前がしろってんなら何だってしてやるよ」
アルフォンスは笑んだ。その水を奪うようにくちづけて、熱い体をまさぐる。
「んっ」
アルフォンスが触れると、兄の体は面白いほど震えた。ひくりと痙攣するような体を追うように撫でながら、甘いくちびると舌を味わう。
「ふ・・・んん」
 ほとんどの水はくちびるから溢れだしてしまった。流れてしまった水にくちびるを離すと、エドワードが物足りなげにこちらを見る。水は、エドワードの喉を伝ってアルフォンスの体をも伝う。零れ落ちていく水がひどく冷たく感じた。
アルフォンスはふたりの隙間を伝っていくその水を辿るように指先でなぞった。するとエドワードの腰がじれったく動いて、彼の熱をも伝える。まだ一度も触ってやっていない彼の欲望は、自らの思いだけで濡れ始めていた。
「・・・なんだよ」
「だって」
くすくすと笑い出したアルフォンスの肩に、エドワードの腕がかかる。
「さっきまでずっと熱いのはボクばっかりだったけど、今は貴方も熱い」
抱きしめた腕の先、背筋を骨の数を数えるようにして辿ってみる。
「当たり、前だろが」
アルフォンスの指先にエドワードの息が上がる。もっと溺れればいい。そんな生意気な口なんか利けない位、アルフォンスしか見えないように、アルフォンスをもっと欲しがるように。
「早く入れて欲しい?」
背骨のその先の、アルフォンスを受け入れてくれる場所を。
「ん・・・ふ」
辿って、擦る。
「すぐに、っつたん、だ・・・れ、ぃ」
アルフォンスのものか、エドワードのものかでぬるつく指を差し入れると、さしたる抵抗も無く入ってゆく。
「でもさっき、舐められてるとこ想像しながらしてたんでしょ。兄さんのしてくれるとこ、兄さんの弱いとこばっかりだったもんね。舐めてあげようか?」
「は・・・んぁ、ふあっ」
「ん?ここ?」
中をゆっくりと探れば、びくびくとエドワードの体が跳ねる。
「いやらしい人だね。前より後ろの方がいいの?」
「あっアル、ア」
「なに?」
言葉も無くしがみついてくるエドワードの背筋を空いた手で何度も辿る。
「ほらこっち向いて。キス、欲しいんでしょう?」
上向いたくちびるに吸い付いて、音を立てながら何度もついばむ。自分から舌を出してくるまでそうしていると、目を開けたエドワードに睨まれた。
「アル・・・んっ」
「ダメだよそんな怖い顔したら」
「うあっあ、あァ・・アル、も・・・ゆっく・・・」
指を増やして強くかき混ぜる。焦がれるように動く腰を掴んでシーツの上に押し倒した。
「そうだよ。もっと可愛い声聞かせて」
「やめっ・・・うっん・・・」
「止めた方がいいの?受け止めてくれるんじゃなかったっけ」
「ちが、そ・・・じゃな、あぁっ」
 指を抜いて膝を掴んで足を上げさせる。当然潤いが足りないことは判っていたが構わなかった。
「そうだよね。兄さんは嫌なんて言わないよね?」
アルフォンスの熱を押し当てると、潤んだ目で見上げていたエドワードが観念するように目を閉じた。
「あんまり素直なのもちょっとつまらないんだけど」
言いながらそのままの体勢で押し入った。
「ぐ・・・っ」
苦しげに顔を歪めてエドワードは自らの膝裏を押さえるアルフォンスの腕をぎりりと掴む。
「さすがに狭いね。痛いよ、力抜いて」
エドワードはぎゅうと目を瞑ったまま、こちらの言葉を聞いているのかいないのか、その目に涙を滲ませていた。
それでも幾度となくアルフォンスとの夜を重ねてきた体だ。苦痛を浅く息をつくことで逃がしながら徐々に力を抜いていく様を見下ろせば、暗い悦びが沸いた。
「あ、る」
荒い息の合間に呼びかけるエドワードは、撫で上げるように手のひらでアルフォンスの腕をたどった。二の腕を引くようにされたのでゆっくりと近付くように体を倒す。更に中に入り込んだ感覚にまた顔を歪めながらも、まだエドワードはアルフォンスを引き寄せようとする。
「苦しくないの?」
顔が至近距離になるまで寄る。膝を離さずに体だけを倒せば、エドワードの体勢はますます辛いものになる。だが彼は少し笑っただけだった。
「止める気も無いくせに聞くな」
エドワードは間近に迫ったアルフォンスのくちびるに噛み付くようにくちづけた。アルフォンスの首に手を回してなりふり構わず舌を挿し込んでくるのは、先程ちゃんとキスをしなかったのを根に持ってのことのようだ。アルフォンスはそれを受けながら喉の奥で笑って、ゆっくりと動き出す。ぐぅっと口が塞がっているが故の呻きが、アルフォンスの口内にも届く。混ぜるように腰を動かすと、たまらずエドワードは爪を立てた。
「アル」
苦しげな息のまま兄は名前を呼んだ。
エドワードは情事の最中は、声が枯れるまでアルフォンスの名前を呼ぶ。アルフォンスは彼を抱く度に如何に彼が自分を求めているか知らされるのだ。
「・・・」
たまらないのはこっちだ。
苦痛に引き結ばれたくちびるも、それでも快感に溶けた瞳も。日頃から情事ともなれば溶けた蜂蜜のような甘さを醸し出す兄ではあるが、今はもうアルフォンスのためだけに存在するもののように。
「は、・・・っん」
「キスはもういいの、兄さん」
「るせ、さ・・・さと動け・・・・っ」
その癖ひとつも屈しないような態度で。
「いいよ。その代わり可愛く鳴いてね?我慢なんかしたら許さないよ?」
この美しいイキモノを檻に入れて囲って。自分のものだけにしてしまえれば、どんなにか、いいだろう。
「そりゃ、お前のテクしだいだな」
「言うね」
どこまでも強気な態度に呆れる一方で愛しさが溢れ出して来る。不意に突き上げるような欲望に襲われて、そのまま熱情をぶつけた。
「あ、あああっ」
押さえつけるように抱きしめて、何度も貫く。
その熱は、夜が明けるまで続いた。



        


瞼を上げると、きらきらと金色が跳ね返してきた。きれいだなと思うその金色の下にはミルク色がちらちらと見え隠れして、そのしっとりとした色合いもまたきれいだと思う。
夕陽はやわらかに彼を照らす。そのうつくしい人のなだらかな背中から続いていく足元までずっとミルク色が続いていて、彼は昨夜のまま何も身に着けていないのだと判った。
彼は腕を上げると、手に持ったものを陽に透かした。その指は銀色で、ちくりとアルフォンスの胸が痛む。彼の左肩から指先までは鋼の義手で出来ていた。幼馴染みとその祖母が優秀な技師で、普段の生活になんら支障は無いが、本来ならあのうつくしい色合いが彼の全てを包んでいたのだと思うとやはり怒りがこみ上げた。自分達の敵であるところのヴァレンティン・アンドレーエ。彼が残していった罠の結果がエドワードに左腕を失わせた。例え母のことが無くとも、そのことだけでアルフォンスは彼を許せはしない。
指の先のガラスの小瓶が光を受けてプリズムのように光を散らす。エドワードの意思を問わず貰い受けてきた毒。アルフォンスが勝手に動くことを、彼はどう思っているのだろうか。
だがエドワードがアルフォンスを守りたいと思ってくれるように、アルフォンスも。
「きれいな体」
彼を守りたいのだ。
アルフォンスが声をかけると、驚いたのか一瞬身を引いてエドワードがこちらを見た。
「起きてたのか」
「今起きた」
「・・・もっかい寝ろ」
「貴方がいないと眠れないよ」
「起きた早々寝ぼけたこと抜かすな」
「兄さんこそ、気になるならボクに聞けばいいのに。そんなこそっと抜け出したりして」
「・・・」
図星をついたらしい。言葉も無くエドワードはベッドに戻ってきて座った。
「これ、ブランヴィリエ夫人が?」
「うん。・・・昨日はごめんね」
「ほう。記憶はあるのか」
「最後の方はだいぶ朧げだけど。・・・兄さんこそ体・・・立ったりして平気なの?」
薬を飲まされた後の記憶ははっきりとあった。それだけに無茶をしたという自覚もかなりある。
アルフォンスは自分の欲望のためだけに彼の体を開いた。自分の出したものに兄の血が混じるのを見て、綺麗だとさえ思ったことも覚えている。
その後も気にせず何度も抱いた。最後の方の兄はほとんど意識を失っていた。
「そんなにやわじゃねえよ。覚えてるなら判るだろ。ちょっと無茶はされたけど痛かったのは最初ぐらいだ」
「・・・ごめん」
痛かっただろう。オイルも使わずろくに慣らしもせず。無理な体勢で無理やり押し入ったのだ。そうでなくても何度もすれば辛いだろうに。
「あんま気にすんな、お前がオレを普段どれだけ大事に抱いてくれてるか、こんなことでもなければ判んなかったんだし」
「そ・・・んなの、当然のことだろ」
「そうか?」
「そうだよ!ボクは兄さんを大事にしたいんだ。誤解の無いように言っておくけど、いつもだってちゃんと満足してるからね!」
エドワードの肩をがしっと掴んで宣言すると、彼はきょとんとした顔でアルフォンスを見上げていたが、突然にやりと笑った。
「でも、どっかでああいう風にしたいと思ってただろ?」
「・・・っ」
思わず言葉に詰まった。さすがにそんなことは無いとは言えなかった。
「お前、昨日は酷い顔してたしな。これは一発兄ちゃんが頑張らねばなるまいと思ったんだよ」
言いながら胸を張ったエドワードが気を使ってくれているのはよく判った。昨夜だって、本当は判っていた。
「そんなに・・・酷い顔してた?」
「オレはアルに色々我慢させてんだなあと思ったよ」
「そんなこと!」
アルフォンスは慌てて否定したが、エドワードは目を細めて笑う。
「あるだろ。ほら、今まで口でしてやったことも無かったしな」
言われてアルフォンスは目の前に閃いた光景に手のひらで顔を覆った。昨夜の光景が鮮明に翻る。多分もう一生忘れられない。
「しかしお前普段から絶倫っぽいけど、あれは薬の効果か?何回やってもいつまで持つんだってくらい長持ちだったな」
「・・・」
決まり悪く言葉も無いアルフォンスにエドワードはちょっと小首を傾げた。
「して欲しかったら言えばいいんだぞ」
「止めてよ言いたくなるから」
「言えばいいじゃねえか。オレは平気だぞ?今だって平気そうだろ?」
「・・・ボクが平気じゃないの。薬が無かったら絶対兄さんに舐められた瞬間にイっちゃうよ」
自己嫌悪に陥るアルフォンスにエドワードは声を上げて笑った。
「完全に薬抜けてるみたいだな」
「・・・うん。まあ」
エドワードは小瓶をアルフォンスに押し付けた。手の中に戻ってきた瓶に、アルフォンスは思わず言った。
「いいの?」
「・・・だってそれはオレのためなんだろ」
そうは言いながらもエドワードの瞳がほんの少しだけ悲しげに揺れる。
「オレだって、アルのためなら幾らでも我慢する。だからアルがオレのために我慢してくれることをオレに何か言う権利なんてない」
「そんな・・・あるよ、兄さんには」
「それで薬飲まされてまで貰ってきた毒を捨てるのか?それもお前の我慢だろうが」
エドワードの真摯な瞳に、アルフォンスはそれ以上何も言わなかった。これ以上は堂々巡りだ。互いが互いを思う限り。目の前のすべらかな体を抱きしめて、ぎゅうと力を込める。
「ありがとう。ボクはいつも貴方に助けられてばかりだ」
「当たり前だ。オレはお前の兄ちゃんなんだからな。言っただろ、全部受け止めてやるって」
腕の中の兄は満足げに笑う。アルフォンスはその兄の嬉しそうな様子に心底安堵した。手の中の小瓶を得ようとしたが為に結局は兄を傷つけることになったのだ。だが彼はそれを痛いとも言わない。その強さを。
「こんなもの無くても貴方なら存在するだけでボクを狂わせる。知ってるつもりだったけど、本当に・・・思い知った」
「なんだ?お前、それを飲まされたのか?」
「うん、確証はないけど本人はそう言ってたね」
「ああ?」
「かなり伝説的な毒でね。入手ルートがルートなだけに、ボクがこれを手に入れたことはすぐに広まるだろうと思って。そしたら抑止力になるかなと思ったんだけど」
「毒なのか?」
「毒だよ」
「媚薬じゃなくて?」
「にもなる、毒」
「あんのオバハン」
ギリギリと怒りに燃える兄をアルフォンスは宥める。
「でもボクが自分で選んで飲んだんだって」
「それは聞いたけど人の弟に毒飲ませるなんて・・・」
「兄さん」
アルフォンスはエドワードの首筋に顔を埋めた。エドワードがほうと息をついてアルフォンスの頭を撫でた。
「バカアル。お前毒だって判ってて飲んだんだろ」
「うん・・・。殺すつもりは無いって言われたから」
「お前ならもっとうまく出来ただろうが。何をそんな焦ったんだよ」
アルフォンスはくちごもった。確かに焦っていたのかもしれない。あの白い薔薇の花束を見ていても立ってもいられなくてリザに連絡を入れたりして。
「ごめん、心配したよね。もう二度とこんなこと無いようにするから」
兄を傷つけさせたくないと思いながら、自らが傷つける要因になった。
「ほんとに二度はごめんだぞ。体はともかく心配するからな」
エドワードは笑い混じりの口調でからかうように言う。
「うん」
アルフォンスは感無量になって力いっぱい抱きしめる。痛いってと叱られたが離せなかった。
「ごめん兄さん」
「アールー」
呆れた言い方で名前を呼んで、エドワードがさらに言い聞かせる。
「もういいって言ってるだろ。これ以上気にしたら怒るぞ」
アルフォンスが渋々腕を離すと、エドワードは子供にでもするようによしよしと頭を撫でた後、手を伸ばして水差しを取った。グラスに水を注ぎながら安心したような顔でいる兄に、アルフォンスも心が軽くなった。
「お前も飲むか?」
「うん、飲ませて」
「・・・」
その気分のまま軽口を言うと飲みかけた手を止めてエドワードが睨んだ。
「あんまり調子に乗ると兄さんは怒りますが」
「・・・さっきはして欲しかったら言えって言ったくせに」
「・・・」
「うそつき」
エドワードは一瞬アルフォンスをぎらりと睨んだが、水を呷るとアルフォンスの体を引き倒してくちづけた。そのくちびるから流れ込んでくる水はひどく甘く感じられた。
「・・・これでいいか」
くちびるを離して身を起こしたエドワードの髪がさらりとアルフォンスの胸を流れてゆく。まっすぐに見つめてくる視線はアルフォンスに疑うことを許さない。今更だけどカッコいい人だなあとアルフォンスは本当に今更ながらしみじみと思った。
幾らでも恋に落ちてゆく。
「もっと」
「欲張ると痛い目見るぜ」
アルフォンスは苦笑した。
「ボクは欲深だけどね、兄さんが飲ませてくれるなら毒だって構わないよ」
「言ってろバカ」
エドワードは毒づいたが、もう一口口に含むとそれを飲ませてくれた。
「ハイ終わり。兄ちゃんは風呂に入ってくるからお前はもうちょっと寝てなさい」
駄々っ子を宥める口ぶりで言って、ベッドを出て行こうとする。
「もう今日はどうしようもないしさ、もうちょっと一緒に寝ようよ。・・・何時?」
それを引き止めたが、兄はなんとも気の無い素振りで返事を返した。
「五時位かな。どうせ寝るならさっぱりしてからの方がいい」
「・・・ちゃんと拭いたつもりだったけど、まだ気持ち悪い?」
心配になって見上げると、エドワードはにっと笑った。
「お前だって起きたら風呂に入るだろ。そんなもんだよ」
「じゃ、一緒に・・・ハイ。寝てます」
怒りの視線に言葉を続けられずに、アルフォンスはシーツに体を落とした。エドワードは声に出して笑いながらバスルームへと向かう。体、本当に大丈夫かなあと思いながら金に彩られた白い背中を見送って、アルフォンスは目を閉じた。心地よい眠りの波が寄せてきていた。

        


「アルフォンス様、アルフォンス様」
不躾に叩かれるノックの音に目が覚めた。それほど乱暴にノックされることはほとんど無いので、アルフォンスは慌てて身を起こした。
そこに兄の姿は無く、アルフォンスは眉をひそめてかけてあったガウンを羽織った。
 ―――どうして兄さんがいない。
「開いてるよ」
「・・・失礼致します」
ドアが開いて執事頭が顔を出す。
「何時?」
「二十三時を超えたところでございます」
「・・・何だって?」
アルフォンスは思わず上掛けを外した。窓は薄く開いており、揺れるカーテンの隙間から見える向こうは確かに光が無い。目を覚ました時エドワードは五時だと言ったか。幾らなんでも寝すぎだろうとアルフォンスは眉間に指を当てた。
「二十三時?どうして起こさなかった」
「夕方に降りていらしたエドワード様が、今日はよくお休みのようだから起こさないでやってくれと仰いまして」
「そうなんだ?で、その本人は?」
「それが・・・お出かけになったままお帰りにならないのです。遅くなるかもしれないとは仰っておりましたが、その、気になるものが届きまして」
アルフォンスは執事頭を見返した。
「気になるもの?」
不意に腹の底が冷えた気がした。どうして自分はそんなに寝過ごした?そして何故兄はいない。
執事頭は食いつくようなアルの視線に一瞬怯んだがあくまで礼節を失わない表情で低く、答えた。


「黒い・・・薔薇でございます」