>> B & B ( the latter part )
夜が明けると、彼は起き出してきてアルフォンスにおはようを言う。
最近では待ちきれなくなって、アルがだいたい彼の部屋のドアの近くに座っていることが多い。
アルフォンスは彼が起きたことをNo.66に伝えて、朝食がテーブルに並べられる。
顔を洗った彼が席に座ると朝食はスタートされ、彼がごちそうさまと言ったところで朝食は終る。
多少休憩したところで、おもむろに立ち上がって彼は図書館に赴く。
その後をアルフォンスもついていって、最近彼が始めた図書の目録作りを手伝う。
あまりに数が多いので、読むついでに片付けようとそういうことらしい。
それに飽きたところでエドの錬金術講座がはじまり、アルフォンスはだいたいいい生徒だと誉められる。筋がいいらしい。
エドの口調に熱が入ってしまって止まらなくなることも多いが、それは彼自身の腹の虫によって妨げられる。
再びアルフォンスが昼食の用意を言いつけて、エドは用意が出来るまでまた少し本を片付ける。
昼食が終ると、午後のお茶まではいろんなことをする。話をしたり花の世話をしたり。組み手もする。
午後のお茶はいいつけなくても自動的に運ばれてくる。天気のいい日は外でお茶にすることもある。その間も彼は楽しげに喋っている。
夕食までは彼自身の勉強に当てられる。彼は非常に勤勉で、真剣な顔をして取り組んでいる。
夕食を取った後は。
彼の勉強の調子がよくて、また勉強に戻ることもある、肩がこったといって、ストレッチをしたりアルたちとまた組み手をすることもある。
「ちょっと付き合えよ、アル」
今日のように、そう言って、眠るまでの時間を共に過ごすこともある。
「うん、兄さん」
それはひどく穏やかで、居心地のいい時間。
彼に与えられた寝室へ行って、ただ座って喋るだけのことが。
「ここに来て、もう、三ヶ月くらいか?」
「そう・・・・・だね。それくらいかも」
アルはもう長く時間を数えるのを止めてしまっていた。
「あと一息で春とはいえ、一番寒い時期だよな」
「・・・・・・あ、もしかしてこの部屋寒い?暖炉の薪増やさせようか?」
「違うんだ。オレは平気」
「・・・・・・・うん?」
小首を傾げたアルに小さく笑いかけて、その白い手を伸ばす。
「お願いがあるんだ」
「お願い?なに?」
「あの鏡をオレにくれないか」
鏡、とアルは呟く。
その鏡とは魔女が置いていった魔法の鏡のことだろう。
「いいけど。何か見たいものでもあるの?」
そう問い掛けたアルに、エドはアルの肩に手をはわせたまま言いづらそうに言った。
「母さんの・・・・・体が、心配なんだ・・・・。今年の冬は寒いから・・・また倒れたりしていないかと思って」
「・・・・・・・」
アルは彼の言葉を聞いて、聞いてからでないとそんなことも思いつかなかった自分を恥じた。
彼は元々自分の母の身代わりとなってここに残ったのだ。それほど母思いの彼が。
心配しないわけが無い、ずっと。言いたくて言えなかったのに違いない。
「こ、ここを出たいとかそういうことじゃないんだ!ここでの暮らしは楽しいし、アルにも良くしてもらってる。でも・・・・!」
エドの必死の様子に、アルは肩に置かれた手のひらに、自分の冷たい手を合わせる。
「判ってるよ。お母さんが心配なんだよね?待ってて。鏡を取ってくるから」
「アル・・・・・・」
ぱっと彼の顔が輝くのを、アルは愛しい思いで見た。エドと暮らすようになって以来、鏡のことなんてすっかり忘れていた。
鏡で遠くの世界を見なくても、今視界に映る世界ばかり輝いていたから。
もうアルに鏡は必要なかった。彼の見たい時に、彼の母の様子を見られるなら彼に上げてしまおう。
アルは急いで塔に向かい、階段を登る。
冷たく閉ざされた扉の向うにはアルのための部屋があった。孤独ばかりを愛していた過去にはここに閉じこもることも多かったと言うのに。
最近では足を踏み入れることも無い。
「・・・・・・・・!」
久々に入った部屋に、ガラスケースに閉じ込めて飾られた花が一輪、かすかに光を放っていた。
それは魔女が鏡と共に置いていった薔薇だった。
三十年の時をかけ、徐々にしおれていったそれは、もはや限界に近い姿を見せていた。
「枯れ始めている・・・・・」
数を減らしている薔薇の花びらは、アルが鎧の姿に縛り付けられるそのタイムリミットを表している。
真実、愛し愛されることを知らなければ。
愛し、愛される。家来達は、自分がエドのことを好きになったのだと言ったけれど。エドは。
エドがまず愛してやまないのは彼の母だ。
たとえそうでないとしても、この醜い鎧の体。
「・・・・・・・・・」
アルは首を振って、魔法の鏡だけを持ち、扉を閉じた。
今は、エドの元に早く戻ってやらなければ。
「兄さん」
「アル」
アルフォンスは手鏡を手渡した。
「ありがと、な」
嬉しそうに、少し照れたようにお礼を言われて、アルの方まで妙に照れる。
「ほら、早く」
そう急かして、エドが思いを込めて鏡に祈ると鏡はそこに。
「母さん・・・・・・・」
そこに映ったのは臥せっているエドの母の姿だった。ひとりの少女が看病をしてくれている。
顔色がひどく悪い。
「母さん。まさか、どうして・・・・ずっと調子が良かったのに・・・!」
だがエドの顔色の方が悪いようにアルには見えた。
鏡を持つ手が震える、問い掛ける声も。
「兄さん・・・・・」
その肩を思わず抱いてやりながら、アルは鎧の頭を寄せる。
「アル・・・・どうしよう。・・・・母さんが・・・・」
日ごろ傲慢な態度を崩さない彼が見せる狼狽に、アルはどうしていいか判らなくなる。
「行きなよ」
すがるように身を寄せてきたエドに、そっとアルは告げた。
「お母さんの元へ。かえってあげればいい。兄さんの顔をみれば、きっとお母さんも元気になるよ」
思わず滑りでた言葉だった。離したくない、離れたくないと思う気持ちは強い。強いが、こんな風に悲しむエドを。
「でも・・・・・!」
見ていられない。
「判ってるでしょう。もうあなたは自由だ、あなた・・・・兄さんを閉じ込める檻はどこにもない、兄さんがここに残る理由も」
「でも、アル・・・・・・」
「三ヶ月間、ボクの家族になってくれて有難う。本当に、本当に楽しい日々だった」
蜜色の目が見上げてくる。悲しみに沈む姿すら、うつくしい。
「これは兄さんに上げるよ。だからどうか、ボクのこと、忘れないで」
握ったままの鏡を、さらにその胸に押し付けてアルは言葉を重ねる。
「あなたがいつ見ても、きっとボクは変わらないでいるから」
だから。
「・・・・・・ボクを、覚えていて」
「アルフォンス!!」
ぎゅうと、エドワードは強く鎧を抱きしめた。その強さは、アルフォンスには伝わらない。伝わらないまま。
「ありがとう、アルフォンス。オレはお前を忘れたりしない。どうかお前も、オレを忘れないでくれ。オレの弟」
まっすぐに見つめる目が、悲しみと辛さを払って強く輝いた。
それで初めて、彼は戦う人なのだと、アルフォンスは知った。
元から閉じ込めたりすることは出来なかったのだ。彼は翼を持って、蒼天に飛び立つことができる人なのだから。
駆け出していくすがたを、動くことも出来ずに見送りながら、アルフォンスは忘れるわけが無い、と呟く。
「忘れられるわけないよ・・・・・・」
どうして涙が出ないのだろう、と、鎧の体を改めて憎んだ。
涙で思い出を流すことも出来ない。
あの人がこの空の体の中に溜めていった、優しい、優しい思い出を。
忘れることも出来ない。
「旦那ァ!」
ばたばたと煩く駆け込んでくる家来が彼の出発を告げた。
「い、今今あの兄ちゃん、すんごい勢いで出て行きましたぜ!」
「いいんだ」
「は?」
エドワードの寝室だった場所に座ったまま、アルフォンスは呆けたように呟く。
「彼を帰したんだ。母親の下へ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ええ!?」
大げさに驚いて、No.66が叫ぶ。
「だって旦那、いいんですかい」
「いいんだって言っただろう。彼のお母さんの具合が良くないんだ。このままここにいたって、彼は心配でいてもたってもいられないだろう」
「でも」
「もう、いいんだ」
三ヶ月間、はかない夢を見た。幸せな夢だった。
こんな鎧の体でも、彼は笑いかけてくれ、本当の弟のように扱ってくれた。
例え薔薇が散り、二度と元の姿に戻ることはなくても、後悔はしないだろう。彼の思い出があるから、生きていける。
彼の知った体のままでいられるなら、あの鏡をたまに覗いて懐かしんでくれるなら。それで。
「キミ達には申し訳ないと思ってる」
「旦那・・・・・・」
「こんな体になったのはボクのせいなのに、もうキミ達を元に戻して上げられない」
愛し、愛されなければ。
愛して欲しいと願うのは彼にだが、彼に愛されることなど、ないだろう、これで。
「王子は、ついに愛をお知りになられたのだな。優しさも」
「これが、愛だろうか」
どこからともなく現れたNo.48に問い掛ける。
「ボクには、判らないよ」
エドワードは走った。森を抜け、街の外れの自分の家まで。
懐かしい我が家が見えた瞬間、加速度的にスピードがあがる。手にはしっかりと鏡を握りしめて。
「・・・・・・・・・・母さん!」
壊す勢いでドアを開けると、金色の髪を高く結った少女が顔を上げた。
「エド・・・・・!?あなた今までどこに行ってたの!?」
少女はウィンリィと言って、エドやトリシャを変人扱いする街人たちの中で、唯一それをしない少女だった。医者の娘で、トリシャのためによく薬を届けてくれていたのだ。
「母さんは!?」
ベッドに駆け寄って、青白い顔をした母の手にすがりつく。
「今はずいぶんマシ。あんたがいなくなって以来、大変だったのよ。エドを助けなくちゃってずっとうわ言みたいに言って。鎧が、大きな鎧がって」
「・・・・・・・そうか」
「体調もひどく崩れてしまって、寝て起きてを繰り返して。まさかあんたほんとに鎧に捕まってたわけ?」
「『捕まって』たわけじゃねーよ」
「そうよねえ・・・・。そんなのいるわけないしね。ま、なんにしろ無事で良かったわ」
ウィンリィは違う意味でとったようだが、構わなかった。青い顔をした母に声をかける。
「母さん、オレは、ここにいるから」
「じゃあ、あたしは帰るわね。明日また様子見に来るから。容態が変わるようなら夜中でも構わないから来て」
エプロンを取り外し、テーブルの上に載せる。それはトリシャのもので、彼女はきっと。
「ああ、世話かけたな。ありがとう、ウィンリィ」
母の世話をずっとしてくれていたのだ。
「これくらいのことで恩に着なくていいわよ。あたしもトリシャさん大好きだもの」
そういって帰っていく彼女を見送って、改めて母を見やる。
「母さん」
呼びかけると、ふと、母の目が開いた。
「エド・・・・・?これは夢なの?」
「夢じゃないよ、母さん。帰ってきたんだ、オレ。帰してもらったんだよ」
「エド・・・良かった・・・・これからは、またふたりで暮らせるのね?」
「・・・・・・・・うん」
トリシャの頬に一筋流れた涙を見ながら、母の言葉に頷くのに、すこし時間がかかった。
ふたりで。
(「ボクの家族になってくれて有難う」)
そう言った、鎧に不似合いの幼い声を思い出す。
(「・・・ボクを覚えていて」)
その悲しみに沈む声を。
青白いながらも、安心したような表情を見せる母の手を握り、だが、どこか安心しきれない自分をエドは感じていた。
「アルフォンス」
ぽつりと呟いた言葉が、予想以上に自分の胸を痛めるのを。
「アル」
三ヶ月間、彼女の息子は行方知れずだった。
鎧に囚われていたせいで。
だが、彼女の息子は。
「ちがう。あいつはほんとはすごくいい奴なんだよ。ここにも帰してくれたし」
そう言って、どこか遠い目で。
「アルフォンスって言うんだ。見た目あんなだけど結構可愛いの。体術がすごくてさ。錬金術も筋がいいんだ。オレ教えてやってたんだぜ」
「そう」
「結構口悪いっていうか、声可愛いんだけど、さらっときついこと言うんだよな。んでも妙に説得力あって、こっちが反論できないの」
「エドが口で負けるなんて珍しいのね」
「いやでもホントあいつってすごい頭いいと思うんだ。ちょっとでもボケると的確に突っ込んでくるしさー」
でもとても嬉しそうに。
「15なんだって。だから弟みたいでさ。面倒見てやりたくなっちゃうんだ」
「エドは兄弟欲しがってたものね」
「ちっちゃいころの話だろー」
そう、欲しがっていた弟ができた嬉しさのようにも見えるけれど。
「顔、一回も見せてくれなかったな・・・・・」
まるで好きな人のことを語るように。
「きっと何か事情があるのね」
「うん。母さんは覚えてないかもしれないけど、あそこ、アルの他にもあとふたり鎧のやつがいてさ。そいつらも絶対鎧脱がないの」
「人には誰にでも事情があるわ。大きな傷があるのかもしれないし、人に見せられないほど醜いと思い込んでいるのかも」
「うん。でも、オレ、あいつ・・・・あいつらがどんな顔でも気にしないのに」
「だったら、鎧を被ったままでも構わないはずでしょう?」
「そりゃもちろん・・・!」
そう言いながらもそこはかとなく落ち込んでいる息子をトリシャはベッドから手を伸ばして抱きしめる。
「会いたい?」
「・・・・・・・別に」
「そう?お母さんは会ってみたいけど。アルフォンス君にすごくびっくりしちゃって、すぐ気を失ってしまったんだもの。エドが話してくれるみたいにいい子なら、会ってみたいわ」
「・・・・ずりぃ」
「エドが嘘をつくからよ」
くすくすと笑って、トリシャは息子の頬を撫でる。
「お母さん、すぐまた元気になるわ。そうしたら、一緒に会いに行きましょう?アルフォンス君は二度と来るなとは言わなかったんでしょう?」
「・・・・・・・・うん」
まるで恋を知ってしまったかのように。
(考えすぎかしら)
だけど、会いに行こうと言うだけで、ほころぶ表情を見ていたら。
「頑張って養生しなくちゃね」
「でも、無理はしちゃダメだぞ」
「はいはい」
鏡を、見てから眠るくせがついた。
祈ると、鏡は大きな鎧を映し出す。碧く、鈍くひかる鎧。
アルフォンス。彼の本当の姿を見たことがない。彼が食べる姿も、眠る姿も。
だけど、たどたどしく好意を示してくる様子が微笑ましく。
つっつくとむきになるところや、鳥や蝶にたかられて、困ったようにするところ。
思えば、素顔よりずっと表情豊かにエドと接してくれていた。
だが鏡の奥に映る彼は。
「アル」
妙に寂しそうに見える。
どこだろう。城はずいぶん広かったから、エドの知らない部屋もあるのだろうけど、アルの背後に映る窓から見える風景は、ずいぶん下に森が見える。
月が近い。
もう春だとはいえ、夜は冷えるのに、アルフォンスがいる部屋には火の気配すらない。
「なにしてんだよ、アル」
考えて見れば、彼がひとりでいる時に火を使っているところを見たこともなかった。
エドワードの様子には常に敏感で、寒そうにしていれば薪を足してくれたり、暖炉の傍で、火が絶えないように気を使ってくれていたけれど。
「お前、寒くないのか?ひとり、寂しくないか?」
その背中から、その赤い目の視線から、寂しさが漏れている気がする。
「アル」
声に出して、呼びかける声が伝わればいい。伝わって、こちらにも。
声が伝わればいい。
(「兄さん」)
耳の奥に残る、甘く幼い声。その声を、どうか聞かせて。
母が笑ってくれたように、もっと彼女の調子が良くなって、そうしたら。
会える。
会おう。
会うんだ。
「・・・・・・・・アル」
頬を寄せた鏡は、かの鎧の温度に似て、ひどく冷たかった。
月光は、春の空気に滲んでいた。
「いい夜だな。月がうつくしい」
「そんなこと言ってる場合かよ。もうすぐ薔薇は散る。オレたちは鎧から戻れない」
「仕方の無いことだ」
「そのうち、鎧になりきっちまっても?」
「我々はもう充分生きたではないか」
「そりゃそーだけどよォ。オレは足りない。足りないね。とばっちり受けたも同然なのに、なんで更に巻き添えくわなきゃなんねーんだ」
「それが臣下というものだろう」
「へっ。達観したこって」
「だが、王子が哀れだな」
見上げた空にそびえ立つ塔。
「こもりっきりだよ、あれ以来。薔薇の方は見向きもせずに、奴さんの家の方向ばかり見てやがる」
「お主も行ったか」
「以前は入ると怒られたもんだが、今はそんな覇気もありゃしねぇなあ。ま、それこそ仕方ねぇが」
「愛を知っても、愛されなければ元に戻れないとは。魔女も酷だな」
「鎧の体のまま愛してもらえなんてな」
「・・・・・・だが、脈はあるような気はしていたがな、兄者」
「・・・・・・っ、オイオイ、今の弟の方かよ!?弟の声を久々に聞いたぜオイ」
「む、お主もそう思っていたか、実は私もそう思っていたのだ。弟よ」
「無視かよ。・・・・つーかお前ら不便だなあ。ふたりでひとつの鎧なんてよ」
「主の意に反しても、主の為に動くってのも臣下ってものじゃねーの?」
「ふむ。確かに」
「なんだよ。あのチビ連れ戻すのか?同じことじゃねーの?母親が心配ですぐ帰っちまうだろうが」
「ならば2人とも連れてくれば良いのだ」
ぽんと66が手を打つ。
「そりゃそうだ。話が早くていいや。脈があるにしたって近くにいなきゃどうにもならんし、ダメで元々だしなァ」
がしゃりと音を立ててふたりは立ち上がった。
「善は急げ」
窓の向きが、彼のいる村の方角だと気付いてからそこから離れられなくなった。
彼の姿が見えるわけでも、彼の声が聞こえるわけでもない。
村すら見えるわけでもないのに。
彼の気配を少しでも感じていたくて。
この体で思い出に浸るのはたやすい。
余計なものに何一つ邪魔されずに思考の海に落ちてゆける。
そういう意味ではこの鎧の体は好ましい。
腹が減るわけでも、喉が渇くわけでも、眠くなるわけでもない。
気が散るということすらないし、目も耳も、外界から遮断させようと思えば完膚なきまでに。
記憶の海で彼が微笑む。
読みかけの本を上げて挨拶をする。
長い髪をうっとおしそうに払う。
すごい勢いでものを食べて、寝相悪く眠る。
そんな姿を、考えたい時に考えたいだけ考えていられるというのは。
結構幸せなことではないかと思う。
そのために生まれてきたのだと思えばあるいは。
あるいはこの生にも意味があるのだと。
どががががががと、それこそ思考をぶち破る勢いで階段をかけて来る音がした。
「大変ですぜ旦那!!」
66だった。
「あのチビが、エドワードが・・・・・!」
けれどその名を聞いた瞬間。
「兄さんが?」
時が止まった。
48に抱えられた彼はひどく億劫そうに見えた。
「アル・・・・」
その、赤いコートの上からですら判る。
「兄さん!!」
血の染み。
「森で見つけたときにはもう・・・多分狼の群れに」
「わり・・・ちょっとしくじって・・・・」
そしてぼろぼろにされた衣服は紛れも無く。
「て・・・・手当て・・・しなきゃ・・・」
「いい。無理だよこの傷じゃ」
エドは儚げに微笑んだ。そして震える手を伸ばす。
「会いたくて・・・。声聞きたくてさ・・・。朝までに帰れば大丈夫だと思って・・・。おま・・・え、夜通し起きてるだろうから、夜中で・・・・も・・・・」
「兄さん、ダメだよ、喋っちゃ・・・・手当て・・・絶対だいじょうぶだから。助けるから・・・・!」
「うん」
48からエドワードを受け取ってそう言うと、嬉しそうにエドが笑った。
「うん。・・・・・な、あ・・。お願いが、ある・・・・んだ・・・けど」
「なに?何でも聞いてあげるよ」
喋るなというのに、エドが出す声を、アルも確かに失ってしまいたくなかった。
彼が黙り込めば、もう二度と聞けない気がして。
「それ、取って」
「それ・・・・って・・・・」
アルの声も震えた。それというのは、多分鎧のことだ。
「アルの・・・・顔・・・見たい」
青ざめた表情は月明かりにも良く判った。
「・・・・・・・・これは・・・・・」
アルは逡巡した。今鎧を取って見せて、そうしたら彼はショックを受けるだろう。傷にもよくないかもしれない。
そして何より。
(・・・・・・・ボクって奴は・・・・)
何でも言うことを聞くと言った。命がけで会いにきてくれた彼の言葉ならばなんでもかなえてやりたかった。
でもまだ。
(ボクは彼に嫌われたくなくて、自分の秘密を打ち明けられない)
嫌われてしまうことが怖くて、彼の頼みなのに。
「王子!手当てを始めます」
「うん」
彼の傷はひどかった。彼は強いが所詮生身の人間だ。大群に襲われては手も足も出なかっただろう。
むしろ食われてしまわなかった方がおかしい。
気も、急いていただろうし。
夜は、もうすぐ明ける。
無事辿り着いたとして、会えたとしても、それはつかの間に過ぎなかったに違いない。でも。
それでも。
「ダメ・・・・か?」
「ううん、いいよ」
エドワードを片手で支えたまま、アルは鎧の頭の部分に手をかけた。
片手でも彼を揺らすことも無い。それもまたこの鎧の利点だった。
彼の体重などいかほども無い。彼の体重どころか。
なんだって。
アルフォンスは静かに鎧を取った。そしてエドワードに語りかけた。
「ボク・・・・・・・・・」
「やっぱり」
「え?」
アルフォンスは思わず尋ね返した。
アルフォンスの鎧の中は空洞だったのだ。アルだけではない、48も、66も。
肉体というものが存在しないので、眠らず、食さず、重さなど何ほどでもない。
耳と目は効くが感触というものも存在しないのだ。
ただ、鎧というだけではなく。実体が無いというその事実。
それを。
「おかしいと、思ってたんだ。三ヶ月も・・・一緒にいて、顔・・・・・も見ないわ、飲み食いするとこも見ないわ・・・・・って、普通あり、えないだろ」
荒い息でそう言って、エドワードは笑う。
「こ・・・・怖くないの」
「オレ、様に・・・・おまえの、どこを・・・・こ・・・わがれって?」
「だって・・・・こんな・・・・・こんなからだ・・・」
「でも、それが、お前、だろ?」
ひとつひとつ区切るように言って、エドは大きく息をついた。
「むう・・・」
「兄者・・・・」
48が唸るのを、気の遠くなるような思いでアルフォンスは聞いた。
「ああ、夜が・・・・明け、るな・・・・・、アル」
赤く染まり始めた空を、アルフォンスに抱えられたままでどうして知ったのか、エドワードはそう呟いて、アルを見た。
「良かった、最後に、お前に、会えて」
ひとことひとことを搾り出すように。
「兄さん・・・・・・・!!」
「母さんを・・・・頼む・・・・・お前しか・・・・たよ・・・・」
「嫌だ、兄さん!兄さん!!・・・・・48!!」
「王子・・・・これは・・・・もう手当ての施せる状態では・・・・」
「嫌だ!兄さん!逝かないで!愛してるんだ!愛してるんだよ!ボクの・・・・」
エドワードは小さく笑った。握られた手にちいさく力がこめられる。こめられているはずなのに、それが届かない。
「ボクが代わる!ボクの命を持っていけ!誰か・・・・・魔女!いないのか!?」
誰か。
「オレも・・・・・・・・アルフォンス」
その手から急速に力が失われていく。
「愛してる」
「・・・・・・・・!」
それが最後の言葉になった。
エドワードの目が閉じられて、その瞬間、全てが終わりを告げた。
けたたましく鳴いた鶏の声が、迫りくる朝を知らせていた。
「兄さん・・・・・・!」
アルフォンスの言葉が契機になったように、朝の光が一瞬でその場を照らした。
そして。
きらり、きらりと。
まるでひかりの雪が落ちてきているようだった。
「王子・・・・・・!」
光っていたのは陽光だけではなく。
陽光を受けた鎧ではなく。
「光が・・・・・・!」
朝の光が満ちるようにその場が光で見えないほどに白く染まる。
だがその一瞬後には光は収束していた。
ただ、ちちちと鳴く鳥の声と、窓から差し込んでくるだけの光。そして、そのあたたかさ。
(あたたかさ?)
「旦那ー!旦那ー!bS8ー!!」
bU6の声がしてそちらを振り向いてみると。
人の。
バリーの姿を認めた瞬間、両腕に重みを感じた。
「・・・・・・・・・・・・・ボク」
それはエドワードの重みであり、またそれを支える腕は。
「戻った・・・・・・」
呆然と呟いて、その皮肉さについていけないまま、アルフォンスは眼下のエドワードを見下ろす。
彼は眠っているようにやすらかな顔をしていた。
あさひを受けて、まるで天使のように。
その頬に、ぽたりと水分が落ちた。
滲んで、エドの顔が良く見えない。それが、初めて流す涙だと気付かずに、アルフォンスはただ涙を流しつづけた。
愛していると言った、あの言葉は聞き間違いではなかったのだ。
エドは、アルを愛してくれたのだ。鎧でも、空洞でも、何の迷いもなく。
本物の、天使だったんだ。
誰にも愛されるわけがないと、凝り固まっていた自分を解して、愛を与えて。
だけど、また自分は罪を犯した。そんな彼を、見殺しにしてしまった。彼の気持ちに気付かずに。自分の気持ちばかりに拘泥して。
こんな愚かな自分に会いにきたせいで。
ぽたぽたと、止まることなく涙が落ちる。
もう止まることなど無いだろうと思う。これは罰なのだ。こうして、彼が戻してくれた姿で、彼の為に。
「王子」
「旦那」
一生泣き続けよう。彼の為に。彼がくれた命は、全て彼に捧げよう。
「何か・・・・様子が変ですぜ?」
「どうにも・・・・異常に血色が・・・・」
記憶に焼き付けるのだ、彼の全てを。彼の髪の色も。彼のあたたかさも。
「そのチビ、もしかして・・・・・・」
66がそう言った瞬間、腕の中のエドワードの目がカッと見開かれた。
「だーーーーーれが、目に見えないほどちんまいかーーーーーー!!」
「うぎゃあ!!」
アルの手からすごい勢いで起き上がって、彼をけり倒す。
腕の中から急速に失われたぬくもりを一瞬見やり、アルは自失した。
「うひゃー!このチビ生き返りやがったー!」
「まだ言うか!このくそオヤジ!」
強烈な速さで追いかけっこをしているエドワードを呆然と目で追いかけていたアルフォンスは、目の前に金色の光が走ってゆくのを無意識に捕まえた。
「・・・・・・兄さん?」
やはりあたたかな手。こんなに。こんなにも。
「・・・・・生き、て、るの・・・・・・?」
「アル?・・・・・その声、おまえアルフォンスなのか・・・・!?」
「・・・・・・・信じられない!兄さん!」
アルフォンスは叫んで無我夢中でエドワードを抱きしめた。
ぎゅうと抱きしめたその腕と、胸と、頬で感じる感触、温度。
頬に触れる彼の頬はすべすべして柔らかく、人の体に戻っても容易に抱きこめる小柄な体は存外固く、指先に落ちてくる髪の。
「兄さん、兄さん、兄さん」
くすぐったいようなやわらかさ。
どんな効果があってのことかは判らないが、今しがた失われたものとばかり思われた彼の命は戻り、確かにアルフォンスの前に存在していた。
そしてあろうことか、その存在をアルフォンスは自らの体で感じることができるのだ。
「アル・・・・」
どれほど呼びかけても信じられずに、ただきつく抱きしめていると、後ろ髪をちょいちょいと引かれた。
「苦しい。ちょっと腕、ゆるめて」
言われて慌ててアルフォンスは力を抜く、すると、そっとアルを押し返したエドが、少しだけ下からアルを見上げた。
「戻れたんだな?」
「うん」
金色の目が眩しそうに少しだけ細められる。
「アルフォンス。これが、お前の本当の顔」
「・・・・そう。これが、ボク」
「王子様って顔してる」
「なにそれ、意味わかんないよ」
くすくすと笑い出すエドワードの、その息が触れる。体を取り戻して一番に触れるものの多くが彼のものであることがひたすらに嬉しい。
誰よりも何よりも愛してやまない彼の。
もう一度力いっぱい抱きしめたい衝動を押さえていると、彼がにやりと笑った。
「お前、ほんとはあんまり大きくなかったんだな」
彼らしい、相変わらずの物言い。アルはくすりと笑う。
「兄さんよりは大きいみたいだけどね」
そう言い返すと、うるせー!と指先を伸ばしてきたエドが、アルの頬をばちんと弾く。
「いたっ・・・・・痛いよ」
文句を言うと目元を和ませて嬉しそうにエドが笑った。キレイだな、と改めて思う。肉眼で捉える彼の極彩色。
アルフォンスはばらばらに解けてしまったエドの髪を、後ろに流すようにする。多少土に汚れてしまっているが、そんなことは彼を汚す理由にならない。
「兄さんは綺麗な顔だね・・・・」
「な・・・・・・に言ってんだ、お前」
「だって初めて見たときから思ってたんだ。ボクは・・・・・、あんな鎧だったし。こんな綺麗な人が、ボクを愛してくれるわけないって思ってた」
空いた額にくちづけると、一瞬身を竦めてエドが少し怒ったように言う。
「バカ。んなの、関係ねーだろ。・・・・・アルは、オレが鎧になったら嫌いになるか?」
「まさか!」
「だろ?」
エドは指先をアルの頬やくちびるに当てて、確かめるように触れてくる。
「これからは一緒に食事も出来るな?」
「うん。これからは一緒に眠ることも出来るよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あ、真っ赤。何考えたの、兄さん」
「うるさい。知るか」
ふふ、と笑うと、エドが指先だけでなく、手のひらで頬を包んでくる。金色の瞳が揺れて、震えるように唇が開いた。
「あのさ」
「・・・・・・・・うん?」
「・・・・・・・・・・愛してるって」
「・・・・・・・」
「本当に?」
少しだけ不安げな顔を見せたエドワードの、その手をとり、アルフォンスはくちづけた。何も心配することは無いのだと。
「ボクがこの姿でいることが、何よりの証拠なんだよ」
そうして話し出す。魔女がこの城に現れた時の話を。
「もう、ずいぶん昔の話なんだけどね」
まさか本当にもとの姿に戻れる日が来るとは思っていなかった。誰かに愛されることも、誰かを愛することがあるとも思えなかった。
うつろな鎧の体は。それほどに冷たく、それほどに醜いと。そう思い込んでいたのに。
「じゃあ」
見上げたエドの呆然とした口調に微笑みかける。
「そう、この姿はキミがボクを愛してくれた証拠でもある」
そう言うと、エドはまた目の淵を赤くした。それがひどく可愛らしくて、アルはそこにもくちづける。
彼と共に暮らすことで愛する喜びを知った。永遠に彼の知る姿でいられるのならもう戻れなくてもいいと覚悟をしていたけれど。
彼は自分の命を失うほどに自分を愛してくれた。その結果だと思えば、この人の体のなんと誇らしいことか。
「愛してくれて有難う。ボクも愛しているよ」
この体を、この思いを、彼ごと愛していけると、アルフォンスは思う。
生きてくれて、良かったと。
「体はだいじょうぶ?」
「ん。絶好調なくらい。絶対死ぬと思ったんだけど」
エドワードは多少体を動かして見せて、にかっと笑う。それでも彼の服に残る血の染みが、先ほどのことを現実だと思い知らせる。
彼を失うなど、耐えられるものではない。もう二度と失いたくない。
この腕に抱いて、守っていきたいと。
「我儘を言ってもいい?」
「わがまま?」
「ずっとボクの傍にいて欲しいんだ」
そう言うとエドは胸をつかれたような顔をした。その指先をアルフォンスの背に回してくる。
「オレが、なんでこんな目にあってまでお前に会いにきたと思ってるんだよ」
がっちりと抱きしめられて、アルフォンスは幸福感で眩暈がしそうになる。この姿でこうしている以上、それは予想できた言葉ではあったが、彼の口から発せられるだけでどうしてこんなにも甘く耳に届くのか。
「うん、兄さん」
「ほんとは・・・母さんが言ってくれてたんだ。具合良くなったらふたりでお前に会いに行こうって」
「お母さんが?」
うん。と頷かれて耳や首がくすぐったい。すり、と甘えるようにさらに身を寄せてくるエドのこめかみにくちづける。
「でも、我慢できなくて・・・・、毎日鏡見てた」
何度触れても愛しさが募るばかりの彼の感触と、信じられないような彼の甘い言葉。
「会いたかった。鏡だけじゃ我慢できなくって、お前、すごい寂しそうに見えたし」
「寂しかったよ。兄さんがそばにいないんだもの」
アル、とエドワードの声が震える。オレも。と小さく囁かれる声。
「オレもずっと一緒にいたい・・・・。アル」
「兄さん」
体中から。
幸せが溢れてしまいそうな気がした。
「・・・・・あ、でも・・・・・・」
一瞬エドが身を引いたのを、柔らかく抱きなおして、アルは笑った。
「判ってる。迎えに行こうか、お母さんを。きっとびっくりするね」
そう言ったアルを見返して、エドワードが嬉しそうに微笑んだ。
庭にはあたたかなひかりが満ちて、穏やかな小鳥の声がしていたけれど、アルフォンスにはもうエドワードしか見えずにいた。
その幸福そうな美しい笑顔を、生涯忘れることはないだろうと思った。
・・・・・・・・・・・長かった!!(笑)調子よく書けたのはいいんですが、とにかく長いよコレ!
どうしてもストーリーを追ってしまうのでー・・・。良かった軍部出さないで(召使いたち候補でした。笑)。
66や48は書いてみたかったので、これを機会に。ちょっと性格変わってる気もしますが、パロなんで許してください(笑)
最後のシーンで彼らは気を使って隠れていると思われます。・・・・・・・・あるいは避難?(笑)
しかし、これ面白いのかなあ・・・・・・・。(え)
あ、元の話で死にかけるのは野獣です(笑)ベルは死にませんから(笑)
05.1.4礼
05.2.28改稿