>> latency
あれ?
そう思ったのが声に出たんだろう。兄さんが呑気な声で、んー?と聞き返してきた。
ボクは出来もしない瞬きをする、という行為をしてみる気分で、何度か首を振る。
ええと。
何だかよく判らないけれど、意識が一瞬飛んでたような気がする。眠れないボクにとって、意識が飛ぶというのはちょっと経験の無いことで、なんだかドキドキする・・・・気がする。
兄さんが眠ってしまった後で、何も考えないように擬似的に眠ってみるようなことはしたことがあるんだけど、そういうぼーっとした後から覚める感覚とは違う、明らかに意識が一度途切れた、という感覚。
うわあ、これってちょっとヤバいんじゃないの。
今のボクを成り立たせているのは、兄さんが描いてくれた血印とその鉄分だ。それがいかに不安定なものであるか。本当は少し考えれば分かった話で。
いや、本当は多分判っていた。この体がそう長く保つようなものじゃないこと。でもこんなの、対策を取れるようなことじゃない。
一刻も早く戻ること。言ってしまえばそれだけで。
どうしよう。今まで黄色表示だったタイムリミットの数字が、赤く変わったみたいだ。
どうしよう、兄さん。
「にいさ・・・・・・・・・・・・・・ん?」
ええと?
「おー、どうしたお前。寝ぼけてんの?」
さっき何やらごそごそしていたのは、タオルを取るためだったらしい。
長い金髪から雫が落ちる。
ボクを心配したのか、下着一枚で、タオルは肩から引っかけただけで、座り込んだボクを覗き込んでくる。
「・・・・・・・・」
それはまあ、有難いというか何というか。いいんだけど。
さっき、あれ?と思った疑問が、ちょっと狼狽えている間に衝撃の答えを伴って返ってきたものだから、一周回って狼狽える隙が無くなってしまったっていうか。
「えい」
妙に冷静なような、そうでもないような気分のまま、肩からかかったタオルの片一方をひらりとめくってみる。
「・・・・・・・・・・・・・」
するとそこには。
「どうしたの、コレ」
「何だ?育ってるようにでも見えるか?」
「・・・・・・・・・」
ボクはあらゆる疑問に苛まれすぎて、とりあえずの声を出すこともできない。えーと、・・・・・・えー?
「胸があるように見えるよ」
例えばどうして寝間着を着て風呂から上がって来れないのかとか、何かいつもより細いような、もっと言えば小さいような気がするとか、っていうか微妙に胸が膨らんでるような気がするとか、いやいやそこはきゃー何するの!じゃないの?とか、そもそも兄さんって呼ばれて返事するんだ?とか。
まあ色々あった訳だけど。
「出てくるもんは仕方ねえだろ」
兄さんがそれを当たり前に思ってるらしいのが、一番理解できないわけで。
「ボクの兄さんは、姉さんだったの?」
「生物学的にはな」
普通だ。限りなく普通だ。いやいやいや、そこ普通に納得する所じゃないだろ。
「ボクの兄さんは、兄さんだったはずなんだけど」
「心配するな。オレ的にはそういう認識でいてくれて全く問題ない」
「・・・・・・・・・・・・・」
って。
「問題ない訳ないだろこの馬鹿兄!!!」
「こういうのも、不安定さから来る、訳無い、よね」
思わず呟いたボクの目の前で、兄さんが漸くタンクトップを着てくれた。
兄さんは姉さんのくせに、やることが兄さんと全く変わりなくて、その辺りがあまりにもらしいというかなんというか、それもどうかと思うんだけど、現状とんでもない事態なのにも関わらず、あんまり狼狽えないでいられているのは、その「らしさ」に寄るところも大きいみたいだ。
「不安定?」
「幻覚でも見てるんじゃないかと思って」
「・・・お前、日頃からそんなか?」
ちか、と金色の目が閃くのは、ボクを心配してのことだ。
「いや、初めて」
「・・・・・ふうん?」
「初めてだよ。さすがに。でもこんなの幻覚だとでも思わないとやってられないじゃないか!だって兄さんが姉さんだよ!?」
敢えて血印には触れないことにした。だっていくら下着まで男物で、上着を羽織ってしまえば男で通せそうに慎ましやかな胸の持ち主でも、兄さん改め姉さんは女の子なんだし、ちょっとは気を遣ってしまう。
やることなすこと言うことが、全く兄さんと変わりなくたって、まあ一応。
「つか、オレとしては急にそんなこと言い出したお前が、それこそ幻覚でも見てたんじゃないのかとしか思えないんだが」
あ、そうか。兄さんから見たらボクが突然変なこと言い出したみたいになるのか。血印のことが無くたって、ボクの存在の不確かさは幾らでも疑える部分で、こういう場合どっちを疑うかって言ったら、兄さんより鎧のボクなのは普通のことだ。
「・・・・ええと、兄さんが国家錬金術師になったのは、14歳の時、だよね。マスタング大佐がばっちゃん家に来て」
「おう」
そこから遡って記憶を辿っていく。あの時ボクらとボクしか知らないことで、不安を追い出したように。
ボクが確かにボクだと証明するために。
「・・・・・で、プロポーズしたんだけど、あたしより背が低い男は嫌!!って振られて」
「・・・・・・・・オレはあんた女でしょ!って振られたぞ」
「プロポーズしたのかよ!」
「嫁にするなら、ああいう女が一番だろ」
「嫁になるのは兄さんの方だろ」
ボクが呆れ返ったら、心底と言った感じで姉さんがため息をついた。
「あああ、オレ、本当に何で男に生まれなかったかなあ」
というか、この人、本当に「兄さん」になりたいんだな。
多少の齟齬はあれど、記憶はほとんど「兄さん」と共有しているもので、そのことにも驚く。
実際あのウィンリィですら呆れて付いてこなかったようなことでも、「彼女」は「兄さん」と同じようにやってきているってことだ。
それらは兄さんの在り方が性別に左右されないという改めての確信と共に、彼女は確かに「兄さん」になりたかったのだということの確証に思えた。
・・・・・・・・・・だからって、第二次性徴が現れてるのにそれを一切気にしないのはどうかと思うけど。
「・・・・・・・そっちのオレはどう?」
ぼふんとベッドに音を立てて沈み込んだ「兄さん」が、呟いた。
「どうって?」
そして、この人はボクの存在をどんな時も否定しない。こんな常軌を逸したことを言い出したボクまで。
「格好いい?」
ボクは思わず吹き出した。きっと色々妄想のオレ様が脳内で大活躍中なんだろうなと思ったからだ。
「なんだよ」
「ううん。格好いいよ。多分姉さんと同じくらい」
「オレと?」
兄さんは思いきり眉を寄せた。それがもう予想通り過ぎてボクは本格的に笑ってしまう。
「馬鹿にしてるだろ」
「してないってば。かっこいいよ。ボクには世界一の兄さんだもの」
「・・・・・・・・・・そうか?」
やたら大人びたところがある一方で、兄さんはこういう幼子のような部分が抜けないでいる。
そのアンバランスさを兄さんらしいと思う一方で、そうさせたのはボクだろうと判るから、何だか複雑な気持ちになる。
急に大人になろうとした、ならなくてはいけなかった、それがボクの為だというのは、酷く悲しいことのように思うけど、嬉しくもあるからだ。
この人の世界は今、ボクを中心に回っている。その事実が、エゴとしか言えない喜びをもたらす。
「何か微妙に納得いかないけど、お前がそう言うならいいや」
そんなところで納得なんかしてしまうし。
「信じてくれるんだ」
喋りながらストレッチをしていた姉さんは、目線で何がと聞いてくる。
「姉さんが兄さんだってこと」
「有り得ないなんてことは有り得ないって言ったのお前だろ」
「・・・・そんなこと言った?」
確かに何だか聞き覚えのある台詞だけど。
「言ったよ。まあ、こっちのお前が、だけど」
「うん。まあ、何もかも同じって訳じゃないよね」
いくら姉さんが兄さんらしくても、ボクの対応が全て兄さんに対するものと一緒って訳にはいかないだろう。
そういえば組み手とかってどうしてるのかな。・・・・師匠の例を見たって、女性だからといって弱いって訳じゃないんだろうけど、あの人はちょっと特例過ぎるっていうか・・・。
ふと、突然機械鎧が気になった。
女性の体にしてはちょっと・・・いや、かなり筋肉質な方だけれど、それでもやっぱりどこか華奢な体にくっついた、無骨な機械鎧。
女の人の体に付いてるのを、見たことが無い訳じゃない。そしてそれが彼女に希望をもたらしたことも知っている。
兄さん・・・・姉さんにとっても、機械鎧はもう一度立ち上がる為の術だ。感謝こそあれ、疎む理由はない。
そう判っているのに、白い肌に食い込むように取り付いた鋼は、余りにも異質に思えた。
多分、機械鎧が足についているだけなら、然程思わなかったんだろう。だけど、さっき見た、恐らく彼女のいちばんやわらかいところに、まるで爪を立てるように食い込むそれらは。
まるで。
「どうしたもんかなあ」
ぐいぐいと腕を伸ばしながら、姉さんは呟く。
「何?」
「この状況だよ。お前がここにいるっていうことは、こっちのアルフォンスはどこ行った?」
「・・・・」
多分、とボクは続ける。
「兄さんのところ、かな」
まあそれが可能性としては一番考えられるよな。と言いながら体中伸ばせるだけ伸ばしきった姉さんが、一気に弛緩してベッドに落ちる。
そしてそのまま天井を見つめるのを、ボクは少し重い気分で見た。
それって。
「どうしたもんだろうねえ」
遅ればせながら同意する。平行世界、というのだろうか。自分たちが生きている世界と交わることは無いけれど、確かにいくつもの別の世界が存在するという説を読んだことがある。
そこは、例えばボクが選ばなかった何かを選んだ世界とも言えるし、兄さんが女の子になっている世界とも言え、そしてそれら全てであるとも言える。
本来交わるはずのない世界に、交わってしまったかもしれない。それは酷く恐ろしいことじゃないか。
物語なら、別の世界に来てしまった主人公は、どうにかこうにか元の世界に帰れることが多い。
だけどこれは物語ではなく、物語の世界ですら、元の世界に戻れないこともあるのだ。
しかもボクは魂を鉄の体に無理矢理繋いだだけの、とても不安定な存在だ。
その不安定さがこの状況を呼んでいるとも考えられる。すると、ボクたちは入れ替わってると考えるのが一番妥当だろう。
「いくつもの平行世界の「アルフォンス」がシャッフルされてる、なんてことでなければ、な」
・・・・・・。
「ちょっと!嫌なこと考えないでよ!!」
「はは、悪ぃ」
姉さんは悪気無く笑って見せたけど、その様が本当に「兄さん」で、ボクはもううっかり安心してしまいそうになって、いやいやいやと首を振る。
でも実際、もしこの平行世界が、「エドワード・エルリックのいない世界」だったなら、ボクはもっと途方にくれていたと思う。その世界で、ボクが鎧の姿で無かったとしても。
それぐらいボクにとって、兄さんの存在は大きいんだって、今更ながら実感してしまった。
この人がいてくれるから。ボクはいつだってボクでいられる。
「どうした?」
笑顔で機械鎧の腕を伸ばして、拳固をぶつけてくれる。
この人がいるから、怖いものなんて、何も無いように思えるんだ。
「あんま心配するなって。もしこのままだったとしても、お前がオレの弟なのには違いないし、オレがお前の体を戻してやるから」
「・・・・・」
安心しろと笑ってくれるエドワード・エルリック。
「もちろん、元の世界に戻る方法も探してやるからさ」
そんなことまで請け負ってしまって、本当にいいのかと思う。
そんな風に全部背負って。
でも、それがエドワード・エルリックだって、ボクは知ってる。
同じことを、きっとあの人も言ってる。
それが、例えどの「ボク」でも。
「・・・・・・うん」
そう思うと、急に居たたまれなくなってきた。
「おー?暗いぞアルフォンス君」
べしべしと鎧を叩く彼女。ボクは、本当はあなたに励ましてもらったりなんて、したら駄目なんだ。
だって、それでもあの人に会いたい。
あの人とこの人と、性別が違うだけで何も変わらないのに、それでもボクの兄さんはあの人だって思ってしまうボクには。
罰が当ったのかもしれない。あの人はボクの兄さんで、当然男で、それなのにとても欲しくて。欲しくて。手を伸ばしてしまったから。
(『姉さん』になんて、手を出せる訳無い)
実際のところを言えば、そりゃ兄さんが女の子だったら、こっそりとでも結婚式上げたりして・・・なんて夢を見なかった訳じゃないけど。
そんなのは兄さんがそこにいるからこそ見られる夢物語でしかない。
血の繋がりの近い相手に欲情することの罪深さは同じでも、それでも相手が女の人だと思うと、何だか洒落にならない気がする。
神様なんて特に信じてやしないけれど、もしそんなものがいるとすれば、まるでボクらを無理にでも引きはがそうとしたみたいな。
「姉さんは、それでいいの?」
「ん?」
「こっちのボクに二度と会えないかもしれなくても」
ボクはボクだ。それに変わりはない。だけどボクにとってはあの兄さんがボクの兄さんであるように、この人にとっても。
・・・・そうであって欲しいというのは、ボクだけの願望なのだろうか。
問いかけたボクに、姉さんは少しだけ微笑う。
その笑い方が酷く母さんに似ていて、心臓が音を立てた気がした。
でもその瞬間、ベッドから跳ね上がった姉さんに、頭を蹴り上げられて勢いで床に転がってしまう。
「ちょ、ここホテルだよ!苦情来たらどうするんだよ!」
がたがたと音を立てて転がった床の上には薄いラグマットしか敷いていない。どう考えても下の階の人に迷惑な音がしたに違いない。
「お前がつまんねぇこと言うからだ」
ボクの頭を抱えたまま、姉さんがにやりと笑った。
「会えない、何てことも有り得ないだろ」
「・・・・・」
この人は。
思わずため息をついたら、不満そうに姉さんはボクの頭を投げて寄越した。
「だって」
この人はボクを信じすぎだ。
ボクは頭をセットしなおして、おもむろに姉さんに向き合う。
「いくつもの平行世界に散らばるボクの魂がひとつのものだとして、それをそれぞれの精神が繋いでいると仮定するなら、世界にとって、今回の出来事自体はイレギュラーでも、現状は通常通りと言えるんじゃないの」
ボクが世界に取って異質ならば、いつか押し出されることもあるかもしれないけれど。
「なら、お前は諦めるの」
近くで見た姉さんのくちびるはやけにつやつやとしていて、こんな時に何だけど、ボクはああ、この人はやっぱり女の人なんだなあと思う。
女の人で、柔らかで白い皮膚に冷たくて重いものを食い込ませて。女の人と一瞬は判らない程に体を造って、それでも当たり前にボクに笑いかける人。
「・・・・・・諦める訳、無いだろ馬鹿兄」
「それでこそオレの弟」
にたりと笑うエドワード・エルリック。
例え、どんな世界が存在するとしても、ボクにとってこの人が「いない世界」だけは無いんじゃないだろうか。
だってそんな世界にボクが存在出来るとは思えない。例え彼と血のつながりがなくとも、傍にいなくても。
ボクはきっとこの人を捜し出す。
「オレたちは繋がってるんだ」
「えっ」
「お前の仮定通りだとすれば、尚更、な」
「うん」
観念的なことばだと思った。ボクを安心させる為の。
それが本当にことば通りの意味だと知るのは、ボクがこの人に会えなくなってからのこと。
何か、あらゆる意味で申し訳なさが募る・・・・・。
恐らく誰もこんな「姉さん」は求めて無いだろうに。
あっでも、んなこと言いつつこっちのアルは当然姉さんに手を出しています(笑)
2012.10.31 礼